扉の向こうへ

扉の向こうへ    
河志摩 運(はこぶ)

「芸(ゲイ)のためなら女房も泣かす、それがどうした文句があるか、雨の横丁、法善寺、浪花しぐれか、寄席林囃子、今日も呼んでる、今日も呼んでる、ど阿呆春団治…」
黒塗りのありふれた扉を引くと同時に、カラオケの演歌と楽しそうな話し声が扉の中から一気にフラッシュオーバーして、瞬の耳に飛び込んで執拗に絡んで来た。
「浪花恋しぐれ」を歌っていたのは、身長が160pくらい?70代後半で陳(チン)さんと言う愛称で呼ばれている在日台湾人で、頭の禿げた小太りのチンケ?で可愛い年寄りだ。
「シュンちゃん、いらっしゃい」と「樹根」の2人の年配従業員がカウンター越しに声をかける。
新たな客が入って来たのに気づいた店内の男たちが、その客が自分のタイプかどうか? を瞬時に品定めする鋭い視線を向けて来た。それは子孫繁栄のために動物のオスがメスの相手を探すという自然な行為の視線ではなくて、人間のオスがオスを性的な対象物として見る同性愛者の鋭い目線だった。
「シュンちゃん」は本名が木叢 瞬(こむら、しゅん)と言う。「木叢さん」とか「瞬さん」でなくて「シュンちゃん」と、いい歳して「ちゃん」付けして呼ばれるのが、本人は好きではない。
「郷に入っては郷に従え」である。瞬は面倒くさいから、そのままにしていたら、いつの間にかその愛称に馴染んでしまった。
ホモセクシャル、同性愛の世界では本名を隠して、苗字や名前の頭文字から取った愛称や住んでいる場所などから名づけた通称で呼ぶのが恒例となっている。
同性愛者だと言う引け目の気持ちやホモだとバレてしまった時、世間の見下す目が怖いのと知人たちの驚く眼差しが恥ずかしいから本名を隠す習性がある。
プライバシー保護の観点と便宜上からホモバーのマスターや従業員が勝手にお客さんを命名して、キープしたボトルに名前を書いている。
佐藤や田中など全国どこにでも転がっている苗字は沢山あるから、サーさんやターさんと言う愛称が複数ダブルことはよくある。その場合は練馬のサーさんとか、福島のターさんのように区別して色分けしている。

「いらっしゃい」と小太りで少し腰が曲がり、頭がツルツルに禿げたターさん(田島さん)と呼ばれている樹根の着物姿のマスターが、瞬に親しく声を掛けた。
上野の通称、小便横丁の2階にある樹根(ジュネ)と言う小さな紫色の看板を掲げたこのホモバーは、一般人(ノンケ)お断り、男だけの会員制の店である。別に特別な会員でなくても男でさえあれば気楽に入れるのだが…。
この扉を境にホモセクシャル、ゲイのアブノーマルな禁断の世界に立ち入ることが出来る。ノーマルな一般人とは全く違う、男だけを愛する裏の社会で、ホモたち同類だけがときめき安らげる領域なのだ。
ごく当たり前の男女関係、肉体関係が成り立つ表舞台では性的興奮が得られず、チンチンが勃起しない?裏の世界なのだ。一歩、店内に立ち入れば世間から隔離した男同士の陽気で気軽な楽しい世界なのである。
「そんなの関係ねぇ〜、そんなの関係ねぇ〜、オッパッピー」
世間の常識的な男女関係とは「そんなの関係ねぇ〜」と男性だけを愛する性的関係の秘密を共有し、精神的な一体感と安心感と肉欲の絆で結ばれた男たちの世界なのである。そこには女性は一切存在しない空間なのである。
樹根はマスターのターさん82歳と76歳のキンちゃんが経営し、従業員のケーちゃん77歳の3人で運営しているが、土日の忙しい時には71歳のシンちゃんと言う小柄で痩せた人懐っこい笑顔のお爺さんがヘルプで出勤している。
樹根で一番人気のキンちゃんはここ数日、風邪を引いて体調を壊して休んでいる。樹根は上野の人気店なので、キンちゃんが休むと忙しくて大変なのだ。
ターさんとキンちゃんは夫婦?でもう30年以上もの長い間、鶯谷駅近くの2DKのマンションで同棲している。世間体を全然気にしない何とも羨ましいカップルなのである。長年、同棲時代を過ごしても、肉体関係があるのは数年で、セックスがなくても夫婦同様、精神的な絆で結ばれているだけになってしまうと言う。
瞬は入り口から右側カウンター席の空いている椅子に座り、同類たちの吐く空気が醸し出す独特な空間に身を置くと、安堵感を肌で感じてほっとした気分に満たされた。
「あなた、おまえ、呼んで呼ばれて、寄り添って、やさしくわたしを、いたわって…、好きで一緒に、なった仲、喧嘩したって、背中あわせの、ぬくもりが、かようふたりは、ふたりは二輪草…」
店内はカラオケの演歌が続いている…。

今朝、瞬は自宅のある千葉県から常磐線に乗って上野駅まで出て来た。昼間の車内は通勤時と違い、かなり空席が目立って座ることが出来た。
年齢を問わずに周りの乗客の殆どがスマホと格闘して、誰一人もが他者を気にする事なく、スマ
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