連載小説
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狼のいる場所 3
帰宅しながらカルテの内容が繰り返し頭に浮かぶ。「易怒性、被害妄想、入院」退院すると薬を飲まなくなり症状が悪化してまた入院。これを繰り返しているようだ。ここ1年ほど安定しているが、いつ悪化するかわからない。入院時に他患者との不適切な接触も内容は容易に想像できる。出会ってはいけない男だったのだ。だがあの執着ぶりを考えると、自宅を特定されるのも時間の問題かもしれない。

 その夜、予想どおり男からメールが来た。久しぶりにいい男と遊べたので警戒することなくアドレスを交換していたのだ。地元の工務店で働いており出張で地方に数ヶ月行っていたらしい。「薬剤師だったんだね。また会いたい」予想どおりの展開だ。メールをブロックするのは、男が逆上する可能性もあるので得策ではないだろう。病院に来て二人の関係を騒がれるのも怖い。現在付き合っている恋人がいるが、遠距離でなかなか会えず寂しくてアプリを使い、遊びのつもりだったことを正直に伝えた。とても良い出会いだったので貴方には感謝していると伝えた。怒らせないか不安ではあったが誠実に対応した。それ以来全く連絡は来なくなったのである。それ以降、1か月ほど特に変わったことはなかったので油断していた。ある日仕事終わりに帰るとドアノブにコンビニの袋が掛けてあった。中を見ると弁当や飲み物、お菓子などが一杯入っている。
「差し入れです」とメモまで付けてある。気持ち悪くてとても手を付ける気にならない。ドアに私の名前が貼ってあるので間違って袋を掛けたとは思えない。その時あの外来の男の視線を思い出した。帰り際私の手を握りIDカードを見られたのが引っかかる。あの日病院から帰る時に後を付けられたのかもしれない。勤務先だけでは無く住所まで特定されたのなら厄介だ。袋を部屋に持ち込み中身を全部廃棄した。怖くてガタガタと震えが止まらない。誰にも相談できないしどうしたらいいのか頭が働かなかった。翌日早めに出勤し男のカルテを確認した。予想通りあれ以来薬を貰いに来ていない。もう薬が切れて1か月は過ぎている。
ゾクっと背中に悪寒がした。

 部屋に違和感を感じたのはそれから数日後だった。それはひどく漠然としたもので勘違いかなと思っていた。仕事からアパートに戻ると確かに自分の部屋に間違いないのだが、朝の出勤時とは違い具体的には説明できない違和感を感じていた。空き巣が入ったのかと思ったが鍵は掛かっていたし取られたモノも無い。気のせいかなと思い、その日は早めに休んだ。しかし数日後私の疑念が確信に変わった。帰ってくると昨夜寝る前にオナニーして、始末に使ったティッシュを入れたゴミ袋が無いのだ。いつも匂いが気になるため精液をふき取ったティッシュだけ別の半透明の袋に入れてきつく縛り、匂いが漏れないようにしていた。それを大きなゴミ袋に入れて今日捨てる予定だったのに。誰かこの部屋に入っているのか。そう考えれば今までの違和感もすべて説明出来る。他に何か無くなってないか部屋中を調べたが特に異常は無い。しかし不意に嫌な予感がして洗濯機の中を確認してみると、一番上に入れたパンツが無くなっているではないか。昨夜精液がパンツに飛び散り、その場で着替えて洗濯機に入れたはずなのに。汚れたザーメンティッシュとパンツを盗むなんてどうかしている。

 そいつは鍵を持っていて、私の部屋に自由に出入り出来るという事だ。鍵を失くしたこともないし、キーホルダーはいつも身に着けている。得体のしれない恐怖で全身に鳥肌が立った。犯人は、あの男以外考えられない。メールで問いただそうと思ったが確かな証拠も無いし、病院に来て逆上されたらと思うと怖くてできなかった。直ぐに管理会社に連絡してドアノブごと交換してもらい鍵を新しくした。自己都合のため全額自己負担となった。痛い出費だが怖くてここ数日良く眠れなかったので仕方がない。しかし本当の恐怖はここから始まったのである。

 それ以降は鍵を使えなくなった苛立ちなのか、そのストーカー行為がますますエスカレートしてきた。
ある日帰宅するとドアノブの辺りに大量の精液が付着していたのだ。鍵を変えたことへの報復だろう。男の激しい怒りを感じた。かなり攻撃的になっていてマズい状況である。
警察に相談するべきか迷ったがやはり証拠がないと取り合ってもらえないだろう。監視カメラを買って録画しないとダメかもしれない。毎日常に監視されているような気がして夜もよく眠れない。エアコンを消してもう寝ようとしたとき送風口に黒い小さいものが見えた。カバーを外すと小さなカメラが出てきた。カメラの中にSDカードが入っている。常に見られているような違和感の理由が分かった。定期的に部屋に侵入しSDカードを回収し電池を交換していたのだろう。早速カードをPCにつないで確認すると10日前からの部屋の様子がハッキリ映っている。おもちゃを使ったオナニーまで撮られた。おもちゃを使ったのは初めてでは無いため、これで脅されたらと思うと絶望感と恐怖で打ちのめされた。これを証拠に警察に届けようと思ったが、自分の恥ずかしい動画を他人に見せる勇気が無かった。もう転職するしかないかもしれない。

 数日後、夜9時頃ウトウトしていたとき突然玄関のチャイムがなりドアをドンドンと叩かれて目が覚めた。こんな時間に?ドアスコープからそっと外を確認する。全身に鳥肌が立った。あの男だ!ドンドンドン!とドアを叩き大声で「開けてくれよ!話があるんだ」玄関先で騒がれるのはもう限界だった。ドアを開けて取り敢えず中に入れた。「久しぶりだな、会いたかったよ。お前が他の男とセックスしてると思うと気が狂いそうになる」強く抱きしめられた。こんなにも激しく私を求めている。相変わらず強面だが良い男だ。男のストレートな愛情表現に私は感動すら憶えた。いつの間にか恐怖は薄れていき、男を誤解していたのかもしれないと思えてきた。「俺は好きな相手としかセックスする気にならないんだ」「僕もあれから誰ともしてないよ」と言って水を飲ませるとだいぶ落ち着いてきた。「ずっと一緒にいたいんだ。俺じゃだめかな」「ありがとう。でも夜に急に来るとびっくりするよ」「ごめん会いたくて我慢出来なかった」まだ話は通じるし会話も成り立っている。「薬はのんでるの?」「うん。この間主治医と担当のケースワーカーに会ってきた。好きな人ができたって相談した」「先生から相手に迷惑をかけてないか聞かれた。相手を困らせて通報されたら、今度は本当に会えなくなるよと言われた」「だから今日は、謝りに来たんだ」どうやら前にも同じような事をして警察沙汰になったようだ。主治医から事情を説明し謝罪するよう諭されたようである。彼からの謝罪を受け入れる代わりに、定期的な通院と薬の服用を約束してもらった。差し入れは彼からの物だった。前彼の大学生にもよく差し入れをしていたらしい。このマンションは、私の通勤帰りをつけたと白状した。

 ドアを汚したことや部屋に入ったことがないか遠回しに聞いてみたがそんな事していないという。それでは一体誰が部屋に入ったのか?別な奴がいるのかと考えると絶望的な気持ちになった。独りになるのが怖くなり、彼に今日は泊まるように頼んだ。二人で体を寄せ合って1つの布団で眠った。私をしっかりと胸に抱き寄せキスをしてくれた。その規則正しい心臓の音を聞いていると、とても気分が落ち着いて久しぶりに良く眠れたのである。ふと目が覚めるとずっと同じ姿勢で私を支えており、私の寝顔をじっと見つめていたのだ。美しい茶色の瞳と目が合う。「起きてたの」「キレイな顔だなと思ってずっと見てたよ。良く寝てたね」私はその言葉に感動し、それまでの恐怖と緊張が解され涙が溢れそうになった。「ありがとう。腕が痛くなるよ。もう寝よう」分かったと言って、広く分厚い背中をこちらに向ける。私は彼の腰に手を回しその大きな背中に抱きついて思い切り男の匂いを吸い込んだ。人肌の温かさに気分がとても落ち着き、男と寝るという幸せが少し分かった様な気がした。
25/05/04 15:24更新 / tak
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