読切小説
[TOP]
夕立ち  最終章 豊穣の雨
最終章 豊穣の雨


雪解けが進み、畦道の土が柔らかくなり始める頃には、村全体が忙しなく動き出していた。

朝靄の中で耕運機の音が響き、
水路には雪代が流れ込み、
長い冬を越えた田んぼが、再び命を待ち始める。

藤野は、借りている農地と古い家屋の契約を、もう一年だけ更新した。

妻と息子たちは、義実家のある町へ移る。
藤野だけが、この土地へ残った。

「一年だけ、自分の答えを探したい」
そう告げた時、妻は長く黙ったあと、静かに頷いた。
その理解が、かえって藤野の胸を重くする。

だからこそ藤野は、自分を律しようとしていた。
単身になれば、時間はいくらでも作れる。
坂井を求めようと思えば、毎晩でも会える。

だが、それでは駄目だと思った。
欲だけで、この関係を壊したくない。

朝早くから畑へ出て、泥にまみれ、黙々と身体を動かす。
坂井とも、必要以上には会わない。
誰の目にも以前と変わらない、坂井と藤野。

だが――。
互いを見ないようにするほど、
意識は深く相手へ向かっていく。

坂井は、田んぼの向こうで作業する藤野の背中を目で追ってしまう。

汗に濡れた首筋。
泥で汚れた腕。
鍬を振るうたびに浮き上がる背中の筋肉。

それを見るだけで、身体の奥が熱を帯びる自分に、坂井は何度も苦笑した。

藤野もまた同じだった。
坂井が腰を屈める仕草。
日に焼けた胸元。

ほんの一瞬視界に入るだけで、触れたい衝動が込み上げる。
だから、会う頻度を減らした。

だが、その我慢が、再び二人きりになった夜を、以前より遥かに激しいものへ変えていった。

藤野が農地と家屋の契約を、もう一年更新すると決めた夜だった。
その報告を聞いた時、坂井は安堵した。
少なくとも、あと一年は、修がこの土地にいる。

朝、同じ田んぼの水を見て、
夕方には作業場で顔を合わせ、
夜になれば、あの温もりを抱き締めることができる。

それだけで胸が満たされるほど、自分はもう藤野という男に深く囚われている。

――だが。
坂井は、その嬉しさの奥に、別の痛みも感じていた。
修には家族がいる。
妻がいて、子がいる。
そして今、その家族は、新しい生活へ向かおうとしている。

本来なら、修はそこへ戻るべき男なのだ。
離れて暮らしながらも、電話越しに息子と大学の話をする藤野の顔を、坂井は何度も見ていた。
妻の実家のことを語る時の、苦しそうな沈黙も。
その度に、坂井の胸には、静かな罪悪感が積もっていく。

――俺は、この男を引き止めている。
家族と離れる辛さを知っている自分が、
年老いた自分の寂しさで。
男としての欲で。
どうしようもない愛情で。

夜、藤野が眠ったあと。
坂井は、隣で静かな寝息を立てる横顔を見つめながら、そっと指先で髪に触れた。
「……あと一年か」
小さな呟き。

この一年を、神様がくれた時間だと思おう。
欲張ってはいけない。
修には、帰るべき場所がある。
自分は、それを奪ってはいけない。

だからせめて、この一年だけは――。
誰にも見せない顔を抱き締め、
この男が自分へ向けてくれる熱を受け止め、
生涯忘れられない時間として胸へ残そう。

そして最後には、笑って送り出そう。
そう思うたび、坂井の胸は張り裂けそうになる。

それでも、眠る藤野の額へ静かに口付けを落としながら、坂井は自分に言い聞かせていた。
――愛しているからこそ、手放さねばならない時もあるのだと。



田植えを終えた六月の終わり。
農家組合の慰労を兼ねた温泉旅行が、隣県の山あいの宿で開かれた。

昼から酒が入り、夜には大広間で宴会が続く。
男たちは皆、仕事を終えた解放感から陽気だった。
誰かが演歌を歌い、誰かが酔って寝転がる。

坂井も笑っていた。
藤野もまた、仲間たちの輪の中で自然に振る舞っている。

だが、二人の視線だけは、時折どうしようもなく絡み合った。
酒で火照った顔。
浴衣の襟元から覗く胸元。
酒を注ぐ時に触れた指先。
それだけで、身体の奥が熱を帯びる。

やがて坂井が先に席を立った。
「少し酔った。風に当たってくる」
誰も気に留めない。
少し遅れて、藤野も静かに宴会場を抜けた。

露天風呂には、誰もいなかった。
山の夜気は涼しく、湯気が白く立ち上っている。

坂井は湯に肩まで浸かり、深く息をついていた。
そこへ藤野が現れる。
視線が合う。
それだけで十分だった。

藤野は黙って湯へ入り、坂井の隣へ近づく。
肩が触れる。
熱い。

湯の熱なのか、互いの身体の熱なのか、もう分からなかった。
「……賢治さん」
掠れた声。

坂井は返事の代わりに、湯の中でそっと藤野の手を握る。
その瞬間、藤野の胸が大きく脈打つ。

誰かが来るかもしれない。
仲間に見られれば終わりだ。

そんな危うさが、かえって二人の感覚を鋭くしていた。
藤野は坂井の肩へ顔を寄せ、耳元で囁く。
「今夜、ずっと見てました」
低い声が、身体の奥まで響く。
坂井は耐えきれず、湯の中で藤野の指を握り返した。

唇が重なる。
短く、だが堪えきれない口付け。
湯の中で密着した身体から、互いの熱が伝わる。
坂井は藤野の胸板へ触れ、その逞しさに指を滑らせた。

藤野もまた、坂井の背へ腕を回し、抱き寄せる。
「……修」

湯の中で立つ藤野の足下で、胸まで湯に浸かりながら、坂井は藤野の腰に手を回して目の前の藤野の聳り立つ熱を口に含んで行く。
坂井の後頭部を藤野の厚みのある手が押さえつける。

夜の露天風呂せいなのか、藤野はいつもより早くに絶頂を迎えていた。
口で受けきれない迸りが坂井の口元から厚い胸板にゆっくりと流れていく。
坂井は胸がいっぱいになる。

それを藤野が、恍惚とした表情で、やがて潤んだ眼差しで見つめる
だが長くは留まれない。
藤野は名残を断つように坂井の肩へ口付けると、坂井に背中を押されて、先に湯を出た。

去っていく背中を、坂井はしばらく見つめていた。
湯気の向こうに、その姿が消える。
静けさだけが残る。

その時だった。
「……いい男だな」
低い声が、岩陰から響く。

坂井は驚いて振り向く。
そこにいたのは−−−
組合の古株――村田。
坂井より少し年上で、地域では一目置かれる男だ。
坂井の叔父を交えて交流もあった男。

いつからいたのか分からない、不覚だった。

村田は湯へゆっくり入りながら、苦く笑った。
「安心しろ。誰にも言わん」

坂井は何も言えない。
だが村田の目には、嘲りはなかった。
むしろ、どこか遠いものを見るような寂しさが滲んでいる。

「昔な」
村田は湯面を見つめたまま呟く。
「俺にも、そういう相手がいたんだ」

坂井の胸が小さく揺れる。

「けど、世間が怖くてな。
 家だの立場だの気にして……」
村田は笑う。
だがその笑いは、ひどく乾いていた。
「手放した後で気づいたよ。
 あれ以上、大事な男はおらんかったってな」

湯気の向こうで、村田の横顔が老いて見えた。

やがて村田は、坂井の肩をぐっと引き寄せる。
熱い掌だった。
「お前は、まだ間に合う」
低い声。

そのまま村田の手が、湯の中で坂井の下腹へ触れる。
「……っ」
坂井の身体が震える。
湯の中でも分かるほど、熱を持っていた。
まだ、藤野との行為の余韻で、芯の硬さを残している

坂井は抵抗しようとする。

「ほら。こんなに元気じゃねえか」
村田が悪戯っぽく口元を綻ばせる。
その言葉が胸に突き刺さっていた。

「若い男を、ちゃんと受け止めてやれ」
村田の声には、後悔と羨望が混じっていた。
「失ってからじゃ遅い」

その瞬間、坂井の胸へ浮かんだのは、藤野の顔だった。
汗に濡れた横顔。
自分を抱き締める腕。
「離れたくない」と漏らした声。

露天風呂の岩の陰で坂井はゆっくり目を閉じる。
村田の手に委ねた男根は容量を増し、張り詰めて行った。

酔いのせいか、先程の藤野との行為の続きと錯覚したのか、
坂井は、藤野に抱かれている心地で、村田に体を預けていた。

自分はもう、あの男なしではいられない。
湯の熱の中で、坂井は改めて思い知っていた。
藤野修という男を、
心の底から愛していることを。



温泉旅行から戻ってからの坂井は、どこか以前と違っていた。

田んぼへ出る時間は変わらない。
朝早く起き、畦を見回り、機械の整備をする。
だが、その合間に、何度も軽トラックを走らせていた。

市役所。
農業委員会。
土地改良区。

書類を抱え、慣れない説明を受けながら、坂井は黙々と手続きを進めていく。
そして時折、村田の家も訪ねた。囲炉裏を挟んで、村田は何も聞かずに酒を注ぐ。

「……決めた顔しとるな」
そう言われた時、坂井は苦く笑った。
「年寄りが、今さらだ」

「今さらだからだろ」
村田は静かに返す。
「残りが見えてくると、人間、ほんとに欲しいもん誤魔化せなくなる」
「俺は、温泉で見た、あんたらの姿が今でも頭から離れん、
互いを想い合う気持ちに背いてはいかんのよ……」
その言葉が、坂井の背を押した。

数日後の夕暮れだった。
作業を終えた藤野が離れへ来ると、坂井は珍しく酒を用意して待っていた。

薄暗い部屋。
障子越しに差す赤い夕陽。
坂井はしばらく黙っていたが、やがて低く口を開く。
「……修」
その呼び方だけで、藤野は何かを察する。

「俺の跡、継がないか」
藤野の動きが止まった。
坂井は、ゆっくりと言葉を続ける。

農業委員会への相談を始めていること。
数年かけて、土地や経営を譲る形を作りたいこと。

盆正月に娘たちが帰る家はこのまま残すが、娘たちに農業を継ぐ意思はない事も改めて確認したこと。

今の古民家の借家や農地の契約満了の後は、坂井の亡き叔父が住まいしていた家を、藤野に譲り、いつでも家族を迎え入れられる様に考えている事。

そして――。
「農家の後継ぎとして、だけじゃない」
坂井はそこで一度、目を伏せた。

長く人前で弱音を見せずに生きてきた男が、
今は震える声を隠しきれない。

「……俺はもう、お前がいないと駄目なんだ」
その言葉に、藤野の胸が強く締めつけられる。
嬉しかった。
胸が熱くなるほど。

だが同時に、分かってしまう。
この決断は、二人だけの問題では済まない。

家族。
土地。
地域。
世間。
様々なものが波紋のように広がっていく。

藤野はすぐには答えられなかった。
坂井も、それを責めなかった。

ただ、その夜は静かに抱き合って眠った。
互いの体温を確かめるように。

それから数日後。
雨の匂いが濃くなった夕方、藤野は坂井の家を訪れた。

部屋に入るなり、藤野は何も言わず坂井を抱き締める。
強く、逃がさないように。
坂井は驚きながらも、その背へ腕を回した。

「……修?」
藤野は坂井の肩へ顔を埋めたまま、掠れた声で言う。
「俺、決めました、ここで生きます」
坂井の呼吸が止まる。
「賢治さんと一緒に」
その瞬間、坂井の目が熱を帯びた。

次の瞬間には、二人は夢中で口付けを交わしていた。
長い不安。
迷い。
孤独。
そのすべてを埋めるように。

藤野は坂井を抱き寄せ、
坂井もまた、これまでになく強く藤野へ縋る。
衣服越しでも分かるほど昂った熱が、互いの身体を震わせる。

「……修、ほんとか」
「何度でも言います」
藤野は坂井の頬へ額を寄せる。
「もう離れません」

その言葉に、坂井の胸の奥で、長く凍っていた何かが溶けていく。
やがて二人は、着衣も脱ぎ捨て、静かに身体を重ねた。

長く力仕事で鍛え上げられた坂井の体と、無駄なく筋肉の盛り上がりを見せるまさに男盛りの藤野の体が、まるで溶け合う様に絡み合う。

激しさだけではない。
これまでに、既に知り尽くしたはずの身体を、
確かめ合うような触れ方。

藤野の掌が坂井の背を撫で、
坂井はその胸へ頬を寄せる。

時折深く口付けを交わしながら、
二人は互いの存在を身体へ刻み込んでいく。
「……修」
「はい」

「好きだ」
坂井は、初めてはっきりそう言った。

藤野の目が揺れる。
そして、抱き締める腕にさらに力が籠もる。

何があっても。
どんな視線を向けられても。
この男を手放さない。
その想いだけが、二人を強く結びつけていた。

その頃、外では雨が降り始めていた。
夏を告げる夕立、作物に豊かな実りをもたらす雨だった。

激しく屋根を叩いていた雨音は、やがて優しく変わっていく。
まるで世界が、
長い時間を経てようやく結ばれた二人を、
静かに包み込むように。


《 完 》
26/06/18 05:54更新 / 卯之助

TOP | 感想

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.35c