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夕立ち  第三章 激しい雨音
第三章 激しい雨音

藤野は、サラリーマン時代から関係を続けている男柏木としばらく会えずにいた。
連絡は取っている。短い言葉のやり取りも続いている。
それでも、会う約束だけは、決められないでいた。

坂井の顔が浮かぶたび、胸の奥が痛む。
あの夕立ちの日から、自分の気持ちははっきりしているけれど、このままでは、向き合えない。

藤野は、意を決して柏木に会った。

いつもの部屋、灯りの色も、変わらない。
変わっているのは、藤野だけだった。

柏木は、何か感じていた。
視線の落ち着かなさ。
いつもなら自然に触れてくるはずの間が、空いている。

「……何か、決めてきた顔だな」
柏木は待つような声音でそう言った。

藤野はしばらく黙っていたが、
やがて、静かに口を開いた。

「……坂井さんのこと、話さなきゃいけないと思って」

柏木の眼光が、一瞬だけ鋭くなる。
だが、すぐに何事もなかったように、

「名前が出るってことは……相当だな」

「はい」

短く、だが逃げのない答え。

柏木は、天井を見上げるように視線を逸らした。
笑うでも、怒るでもない。
ただ、少しだけ長く、息を吐く。

「……ああ、そうか」

その声には、
驚きよりも、やっぱりなという諦観が滲んでいた。

「俺と会いながら、
 もう、別の場所で生き始めていたんだな」

藤野は、否定しなかった。

「……中途半端なままじゃ、向き合えないと思って」

柏木は、ふっと笑った。
「真面目だな。昔から、そうだ」

しばらく、沈黙が落ちる。

「……で、俺とは、どうしたい?」
柏木が、ようやく問いを投げた。

藤野が、はっきりと「終わり」を口にしかけた、その瞬間だった。

柏木は、何も言わず立ち上がった。

上着を脱ぎ、シャツを脱ぎ、
ためらいも見せず、すべてを床に落とす。

その動きは、挑発というより、
追い詰められた獣が最後に選ぶ行為に近かった。

「……見ろよ」  低い声だった。

「これを全部捨てて、本当に俺を忘れられるのか」

藤野は、言葉を失った。

目の前にあるのは、
長い時間を共にした男の、身体と消し去る事の出来ない深い記憶だった。

何度も抱き寄せた肩、唇を這わせた胸元、藤野の手で情を迸らせた男の証までも、
全てが目の前で、藤野を乱して行く。

視線を逸らそうとしても、目が離れない。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。

......もう、違うはずだ。
頭では、そう繰り返しているのに、
息が、浅くなる。鼓動が、早くなる。
身体は正直だった。

柏木は、言葉もなく一歩踏み出した。

藤野が息を呑んだ、その瞬間、唇が塞がれた。

強引だった。
問いかけではなく、確かめるような口づけ。

藤野の身体は、反射的にこわばり、
だが、突き放すだけの力が出ない。

柏木の手が、藤野の手首を取る。
逃がさない力ではない。
戻る場所を示すような導きだった。

触れた先で、藤野ははっとする。
掌越しに伝わる熱、
否応なく思い出される記憶。

「……まだ、ここにあるだろ」

柏木の声は低く、近い。

藤野の背筋が粟立つ。
身体の線をなぞる指先の感触だけで、
何を求めているのかは、痛いほど伝わった。

藤野は目を閉じる。
違うはずなのに。

胸の奥とは裏腹に、
身体が、応えてしまう自分が、
何よりも許せなかった。

「……やめて……」

掠れた声は、柏木には届かず、藤野の心を裏切ってゆく虚しい響きと消えた。

藤野の若い野生は、いつもよりも激しく、目の前の慣れ親しんだ肉体を蹂躙して行き、その激しさに、藤野自身も酔いしれるような、大きなうねりと快楽へと引き込まれていった。

汗ばんだ体を重ね、柏木の上から身を剥がした藤野に、視線を向けずに、柏木は言う。
「……逃げ道を、全部塞ぐ気か」

「……」

「分かってる」
柏木は、短く言った。

柏木は、藤野の肩にそっと触れた。
引き寄せるでもない、曖昧な力で。

「俺は、今すぐ消える気はない。
 でもな……」

視線が、真っ直ぐに刺さる。

「お前が居る場所は、ここだと、お前の体が一番知っているんじゃないのか......」

藤野は、深く頷いた。

「それでも……整理しなきゃ、前に進めないです」

「……分かった。時間はやる」

だが、その声には、
完全な手放しではない、
未練と覚悟が混じった重さが残っていた。



その日から、藤野は苦しそうだった。

決めたはずなのに、割り切れない。
誰も、傷つけたくない。

坂井は、その変化を見逃さなかった。

藤野は、目を合わせる時間が短くなり、
言葉も慎重になった。

「修……」

呼び止めても、
以前のように、すぐに振り返らない。

坂井の胸に、不安が募る。

−−−俺のせいか。
−−−あの夕立ちの日が、重荷になったのか。

理由を知らない坂井には、
藤野の苦しさが、距離に見えてしまう。

それでも、
藤野が逃げていないことだけは、
坂井には、なぜか分かっていた。

だからこそ、次に言葉を交わす時が、
決定的になる予感だけが、胸の奥で静かに膨らんでいた。



秋の彼岸。
坂井は、墓前に静かに腰を下ろし、手を合わせた。

線香の煙が揺れ、その匂いに混じって、胸の奥に封じてきた記憶が、ゆっくりとほどけていく。
叔父さんの逞しい胸が懐かしい......

――お前は、お前のままでいい。

その無言の肯定が、聞こえた気がした。

「……叔父さん、俺は……今、あいつに惹かれている」

藤野の背中、
働く腕、
ふとした時に見せる、年下らしからぬ落ち着いた眼差し。

欲だけではない。
守りたいとも、向き合いたいとも思ってしまう自分がいる。

「正面から、向き合っても……いいでしょうか」

問いかけに、答えは返らない。
それでも、秋風が線香の煙をやさしく揺らし、
どこか懐かしい温もりが、坂井の背を撫でた気がした。

――逃げるな。
――抱いた想いを、否定するな。

そう言われたような気がして、坂井は、ゆっくりと顔を上げる。

過去を胸に抱いたままでもいい。
あの人から受け取ったものを、今度は自分の意志で、生き直す。

坂井は深く一礼し、
藤野と向き合う覚悟を、静かに胸に刻んだ。



夜気が、稲の匂いを含んで流れていた。
水路の点検を終え、作業小屋に戻ると、外はすでに暗い。

裸電球の下、坂井は長靴を脱ぎ、腰を下ろした。
遅れて入ってきた藤野が戸を閉めると、音がやけに大きく響いた。

沈黙。

互いに、言葉を探しているのが分かる。
だが、もう“何もなかったふり”は出来なかった。

藤野が口を開く。

「……賢治さん」

急に呼ばれ、坂井の背筋がわずかに震えた。
藤野は一歩も近づかない。
ただ、視線だけが、坂井を逃がさない。

「俺、これ以上、曖昧なままじゃ……いられません」

責める調子ではない。
むしろ、覚悟を告げる静けさだった。

坂井は俯き、掌を見つめる。
地域の顔、年長者、頼られる男。
その肩書きが、今はやけに重い。

「……修」

坂井も名を呼んだ。
藤野の喉が、小さく鳴る。

「俺は……お前を、止める立場のはずだ」

そう言いながらも、
心と身体は、ずっと逆の方向を向いている。

藤野は、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
「嫌なら、ここで終わりにします」

その言葉に、坂井は顔を上げた。
逃げ道を塞ぐ言葉ではない。

長い沈黙の後、坂井は立ち上がる。
藤野の前に立ち、真正面から見据えた。

「……修」

声が、少し低くなる。

「俺はもう、若くない。
 それでも……」

一拍、間を置いて。

「お前に、任せたい。」

その瞬間、藤野の表情が変わった。
抑えていたものが、静かに、しかし確かに解き放たれる。

藤野は近づき、
坂井の肩に、そっと手を置く。

触れ方は、慎重で、確かだった。

坂井は拒まない。
逃げもしない。
ただ、受け止めるように、藤野の胸に額を預けた。

電球の下、二人の影が重なり、
その距離は、もう言葉では測れなくなっていた。

藤野の腕が、坂井の背に回る。
力は強くないが、逃がさない意思がある。

坂井は、目を閉じた。

胸に伝わる鼓動。
年下の男の体温。
そのすべてを、拒まずに受け入れている自分がいる。

「……修」

「賢治さん.....」

短い応答。
それだけで、通じてしまう。

坂井は、藤野の胸に手を置く。
導くのではない。
委ねるための合図だった。

藤野は、その意味を正確に受け取る。

抱擁が、深くなる。
強く、だが荒々しくはない。
積み重ねてきた時間を、確かめ合うように。

「賢治さん……」

名を呼ばれるたび、
坂井の中で、長く封じてきたものが、音を立てて崩れていく。

叔父に抱かれた夜々。
男の温もりを、肯定された記憶。
それらすべてが、今、この瞬間へと繋がっていた。

坂井は、静かに言った。

「……もう、戻らんぞ」

それは警告ではなく、覚悟の宣言だった。

藤野は、答えの代わりに、
坂井を強く、深く抱き締めた。

藤野の手が、坂井の背に回る。
指先はためらいながらも、確かな意思を持って、広い背中をなぞっていく。
作業で鍛えられた身体は、触れられるたびに小さく反応し、
坂井は思わず、喉の奥で息を飲んだ。

「……修」

名を呼ぶ声が、低く震える。
それだけで、藤野の中の何かが決壊した。

藤野は坂井の肩に額を預け、
胸と胸をぴたりと合わせる。
布越しでも分かる熱が、逃げ場を失って、二人の間に溜まっていく。

坂井の手が、無意識のまま藤野の腕を掴んだ。
離れてしまわないように、縋るような力だった。

藤野は、その力に応えるように、
坂井の腰へと手を滑らせる。
触れた瞬間、坂井の身体がはっきりと強張り、
隠しきれない反応が、下半身に集まっていくのを、藤野は感じ取った。

「……賢治さん」

囁くような声。
名前を呼ばれるたび、坂井の理性は、少しずつ剥がれていく。

坂井は目を閉じた。
長い年月、抑え続けてきたものが、
今、確かに目を覚ましている。

藤野の手が、背中から胸元へ移り、
服の上から、ゆっくりと撫でる。
その動きに合わせるように、坂井の呼吸は荒くなり、
身体の奥で、熱が脈打つのが分かる。

もう、隠せない。
そう悟った坂井は、藤野の首元に腕を回し、
自ら距離を詰めた。

唇が重なり、
それまで抑えられていた欲望が、一気に溢れ出す。

貪るように、互いを求め、
指が服の皺を掴み、背に、腰に、何度も触れる。
互いの股間は、はち切れそうなほどの存在感を主張し、
二人はそれを隠そうともしなかった。
むしろ、その昂りを相手に届けたくて、腰を打ちつけ合っていた。

藤野の手が、坂井の肩にかかった作業着の縁を捉える。
一瞬だけ、ためらいが指に宿るが、それはすぐに消えた。

ゆっくりと、しかし確実に、布が引き下ろされる。

肩が露わになり、
長年、日差しと風に晒されてきた肌が、夜気に触れて小さく粟立つ。

坂井は息を詰めた。
触れられるより先に、「見られている」ことが、胸の奥を熱くする。

「……修」

名を呼ぶ声は、もう掠れていた。

藤野は答えず、
その代わりに、坂井の胸元へと両手を伸ばす。
服の上から伝わっていた熱が、布一枚隔てて、さらに濃くなる。

ズボンの留め具が外される音。
それは、夜の静けさの中ではっきりと響き、
坂井の中で、何かが決定的に切り替わる合図になった。

着衣が、床に落ちる。

初めて直接触れる素肌と素肌。
藤野の胸板の硬さと温もりが、逃げ場なく迫り、
坂井は思わず、その背に腕を回した。

抱き締める力が、強くなる。

藤野の手は、背中から脇腹へ、
そして腰のあたりで止まり、
そこに確かにある坂井の変化を、否応なく意識させた。

坂井の身体は、もう隠すことを忘れていた。
長く抑えてきた衝動が、下腹に集まり、
最後の一枚の布を切り裂かんばかりに、存在を主張している。

藤野は、低く息を吐く。

「……賢治さん」

その声に、坂井の理性は、ほとんど形を失った。

今度は坂井の手が、藤野の背中を探る。
汗に湿った肌、引き締まった筋肉、
触れるたびに、藤野の身体もまた、はっきりと反応する。

互いの熱が、重なり合い、
境目が、曖昧になっていく。

最後に残った布に、藤野の指がかかる。
引き寄せられるように、二人の額が触れ合い、
短く、荒い息が混じる。

「……もっと....」

坂井の切ない声、

藤野は、答えの代わりに、
坂井を強く抱き締め、
そのまま、ゆっくりと押し倒す。
最後に残った布に、藤野の指がかかった、その刹那。
坂井は、思わず手を伸ばしていた。

自分でも驚くほど、衝動的な動きだった。

藤野の下腹部に、そっと触れる。
掴むでも、確かめるでもない。
ただ、そこに「在る」ことを受け止めるように、掌を添えただけだった。

それなのに――
坂井は息を呑んだ。

若い身体が蓄えてきた熱と量感が、
布越しにもはっきりと伝わってくる。
押し返すような存在感に、胸の奥がきゅっと縮まり、
同時に、抗いようのない昂りが、身体の内側を駆け上がった。

「……っ」

声にならない息が、喉から漏れる。

藤野の身体が、わずかに揺れ、
その反応が、坂井の掌にそのまま返ってくる。

――自分は、今、何に触れているのか。
――どこへ踏み込もうとしているのか。

理解するより先に、身体が答えを出していた。

藤野は、坂井の手首にそっと自分の手を重ね、
拒まず、逃がさず、ただ静かに受け止める。

視線が絡み、
二人とも、もう言葉を探さなかった。

そのまま、藤野が坂井を抱き寄せ、
ゆっくりと押し倒す。

床に落ちた衣服の上で、倒れかけた坂井は藤野の唇を求め、
藤野は吸い寄せられるように、舌を絡めた。

二人の影が、深く、ひとつに重なった。

二人の男のために、夜の帳が存在しているようだった。

作業小屋には、乾いた藁の匂いと、雨上がりの土の湿り気がまだ残っていた。
閉められた扉の向こうで、風が一度、壁を叩いて去っていく。

藤野は急がなかった。
畑を均す時と同じ、確かで迷いのない手つきで、坂井の背に触れ、肩に触れ、静かに距離を詰めていく。

「力、抜いてください」

低い声に導かれるように、坂井の身体がわずかに揺らぐ。
長く人を支えてきた男が、初めて預ける重さに戸惑っている、その微かな震えを、藤野は見逃さない。

藤野の手が腰に回った瞬間、坂井の呼吸が変わった。
視線が絡み、逃げ場を探すように揺れた坂井の目を、藤野は静かに捕まえる。

拒む事は何もない。

藤野はそっと額を寄せる。
近すぎる距離に、互いの息が混じり合い、
ためらいが最後の壁のように残った、その刹那。

薄暗がりの中で、優しく唇が触れた。

確かめるような、浅い口付け。
すぐに離れるはずだったそれは、坂井の指が藤野の首筋を掴んだことで、引き留められる。

二度目の口付けは、深かった。
藤野の舌が遠慮なく踏み込み、坂井は思わず息を呑む。
逃げるより早く、受け入れてしまった自分に驚きながら、
それでも坂井は、その温度を拒めなかった。

絡み合う舌と舌。
年齢も立場も忘れさせるほど、ただ「欲している」という事実だけが、暗がりの中で鮮やかになる。

坂井の喉から、低く押し殺した声が漏れる。
その震えを感じ取った藤野は、身体を密着させ、
口付けを解かぬまま、腕の中へと抱き込んだ。

触れるたび、坂井の中で何かがほどけていく。
藤野に導かれるまま、感じることだけに身を委ねていく。

やがて口付けが解かれ、
額を合わせたまま、二人は短く息を整える。

藤野は
二人の覚悟を確かめるように、
再び身体を寄せ、深く、確かに、二人の距離を消し去った。

坂井の体を開かせ、割って入った藤野の男盛りの肉体、

坂井は
もう引き返す場所を、確かに越えてしまった証を、体て感じていた。


抱き合ったまま、二人はしばらく言葉を失っていた。
作業小屋の中には、荒くなった呼吸がゆっくりと落ち着いていく音と、外で鳴く虫の声だけがある。

坂井は藤野の腕枕の上で、藤野の胸に額を預けたまま、動こうとしなかった。
自分の腹や胸に残るぬくもり――先ほどまで身体を駆け抜けていた熱の名残が、じんわりと広がっているのを、他人事のように感じている。

汗に混じったその痕跡さえ、今の坂井には嫌悪ではなかった。
むしろ、身体の奥で結ばれた確かな余韻とともに、
「確かに一つになった」という事実を物語る印のように思えた。

腰の奥に残る鈍い感覚。
わずかな痛みさえも、藤野がそこにいた証として、
坂井の胸に不思議な悦びを呼び起こす。

――この歳で、こんなふうに満たされる日が来るとは。

坂井は目を閉じ、深く息をついた。
恥も迷いも、すべてが溶けたあとの、静かな充足感だけが残っている。

一方で藤野は、腕の中の坂井を確かめるように、背に回した手にそっと力を込めていた。
ずっと求めていたものを、ようやく手にしたという実感が、胸の奥で静かに膨らんでいる。

頼られる存在としての坂井が、
皆の前では決して見せない、脆さと、委ねる仕草。

そのすべてを、今は自分だけが知っている。
その事実が、藤野の心を深く満たしていた。

「……賢治さん」

小さく名を呼ぶと、坂井の肩がわずかに揺れる。
返事はないが、その沈黙が拒絶ではないことを、藤野はもう知っていた。
二人は再び、言葉のない時間に身を委ねる。

裸電球の灯った小屋の中で、
それぞれが、それぞれの満足と覚悟を抱えたまま、ただ静かに、抱き合う二人、
もう元の距離には戻れないことを、黙って受け入れていた。

坂井と藤野、それぞれの胸の内には、互いへの激しくも慈愛に満ちた雨音が響いていた。

          ー つづく ー
26/05/15 21:41更新 / 卯之助

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