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夕立ち  第二章 雲間からの夕陽
翌日以降、二人は普段通りに振る舞おうと努めていた。
しかし、朝の畑へ向かう途中、共同施設での作業の合間やふとした瞬間に交わる視線だけで胸の奥に波紋が広がる。
距離は近くても、触れられそうで触れられない、言葉にできないそれぞれの感情が二人の間に漂っていた。

そんな日々が繰り返される中で、坂井は自分の心の声に少しずつ耳を傾け始めていた。
藤野もまた、抑えきれない想いと理性の狭間で揺れ動きながらも、二人の間に流れる時間を大切に感じていた。

坂井はあの夜のことを思い出すたび、心の奥に複雑な波が立った。
酔いが回った中での出来事だった。
藤野がああして近づいてきたのは、酒の勢いだったのか――。
真面目そうな顔をして、あの時はあんな手つきで、自分の肩や胸をためらわず触れた。
けれど翌日以降、藤野は何事もなかったように、笑顔も距離も普段通り。
その平静さが、かえって坂井を惑わせた。
(あれは…夢みたいなもんだったのか)

一方の藤野も、胸の奥に抑えの利かない熱を抱えていた。
坂井への想いは、身体の欲望だけではなく、もっと深いところで形を成し始めている――。
それが分かるからこそ、これ以上踏み込んではいけないと、理性が必死に自制を促した。



その夜、藤野は会社勤めの頃から続いている年上の男柏木のもとを久しぶりに訪れた。

待ち合わせたビジネスホテルの一室。
互いに慣れた仕草で服を脱ぎ、肌を重ねる。
柏木の体温や匂いは、何度も知っているはずなのに、藤野の心は妙に遠くにあった。
目を閉じれば、浮かんでくるのは坂井の笑った顔、額の汗、雨に濡れた首筋。
柏木の指が藤野の背を撫でても、その温もりの向こう側に坂井の手の感触を探してしまう。

それらを振り払う様に、藤野は65歳の柏木を組み敷いて、貪るような口付けから首筋を這う藤野の唇は柏木の胸の突起へと進み、舌先で左右の胸を何度も往復する。
柏木は、いつも以上に性急な藤野の頭を引き寄せた。
それに合わせる様に、藤野は柏木の腰に腕を回して自らの昂りを誇示するように股間を柏木の太腿に押し付けて身悶えた。

やがて、藤野は柏木の中に分け入り、最初は緩やかに、徐々に速さを増して、弾む息と腰を打ち付けて、激しく精を放った後、

柏木の胸に気怠くもたれていた藤野の耳元で、ふと柏木が囁いた。
「…今日は、何か別の景色を見てる目だな」
その声に、藤野の胸が一瞬凍った。
誤魔化そうと笑ったが、柏木は微かに目を細めたまま、何もそれ以上は言わなかった。
けれど、その沈黙こそが、藤野の胸に小さな痛みを残した。

雨の夜から数日が過ぎても、
坂井はあの日の意味を、考えずにはいられなかった。

(堂々巡りの思考)

藤野の横顔を見ていると、雨の日の表情が蘇る。
無防備で、少し熱を帯びた目。
触れたとき、驚きよりも受け止めるようにこちらを見ていた、その顔。
坂井は何度も自分に言い聞かせる。
――年下の男だ。家族もいる。考えるな、と。

不自然な態度にならないか、気にすれば気にする程、藤野との距離を測りかねていた。

一方で藤野は、坂井の前では以前より言葉を選ぶようになっていた。
近づけば、あの日の続きを望んでしまう。
距離を取れば、失ってしまう気がするが、
その板挟みのまま、藤野は、あえて距離を保った。
触れない。踏み込まない。
それがせめてもの、自分なりの誠実さだった。

ある夕方、共同の作業を終えて別れ際、

「……修くん?」
坂井が何気なく口にした名前に、藤野の呼吸が止まった。

「今、なんて?」

「修って……名前で呼ぶのはだめだったか?」
坂井は少し困ったように笑った。
その表情が、藤野の胸を決定的に締めつける。

「賢治さんが、そう呼んでくれたら」
藤野は、声を整えるのに必死だった。
「俺も……賢治さんって呼びたい」

賢治。
その音が、藤野の口から零れ落ちた瞬間、
長く張りつめていた何かが、軋む音がした。

坂井は、黙って藤野を見つめていた。
その視線は逃げず、探るようでもあり、
どこか——待っているようでもあった。

「修……」
坂井が不意に言った。
「……あの日のことだが」
藤野は一瞬、息を止める。

だが坂井は続けられなかった。
言葉を探すように視線を落とし、結局、
「雨、ひどかったな......」とだけ言った。

藤野は小さく笑ってうなずく。
「ええ……忘れられない雨でした」

その一言に、互いの胸の奥が同時に熱を帯びたことを、
気づいていながら、どちらも口にはしなかった。

近づいたと思えば、また離れる、不器用な二人はそのまま家路についた。



その日、藤野は自分でも驚くほど落ち着かなかった。視線は何度も、無意識のうちに坂井の背中を追ってしまう。
名前で呼び合えた事が、距離を縮めたと言えるのか?

......まずいな。

いつもの習慣のように、
スマートフォンを手に取り、柏木に短いメッセージを送る。
すぐに返事は来たが、会える日は調整出来なかった。

〈また今度だな〉
その言葉を見つめながら、藤野は画面を閉じる。

......違う。

今夜、求めているのは、柏木ではなかった。

それを認めてしまいそうで、藤野は胸を押さえた。
坂井への衝動を、これ以上育ててはいけない。
そう思うほど、逆に、心は坂井から離れなくなっていた。

夜更け、坂井の家は静まり返っていた。
時計の針の音さえ、やけに大きく聞こえる。

坂井は布団の中で、仰向けのまま目を閉じていたが、
どうしても眠りに落ちることができなかった。

あの時のずっと前のあの感触が、消えない。

自分の肩に置かれた、藤野の腕。
あの重さ。
胸に伝わった、確かな体温。

無意識のうちに、坂井は自分の肩に手をやった。
指先で、ゆっくりとなぞる。

......ここだ。
藤野が触れていた場所。
布の上からでも感じた、あの温もりを思い出そうとするかのように、
同じところを、何度も、確かめる。

胸に手を移すと、呼吸が少し深くなる。
鼓動が、はっきりと分かるほどに強くなっていた。

血が、勢いを増して巡っていくのが分かる。
長いこと忘れていた感覚だった。
若い頃、どうしようもなく体が反応していた、あの感覚。

六十二年、生きてきて、
もう遠ざかって行くばかりと思っていた衝動が、
今夜ははっきりと、身体の中心に集まってくる。

胸が苦しい。
呼吸が、熱を帯びる。

「……修……」
名を呼んだつもりはなかった。
だが、声にならない息が、唇からこぼれていた。

藤野の背中。
藤野の胸。
藤野の濡れたズボンの中で形を成した男の証、あの時の表情。

思い浮かべるたび、
身体は正直に応えてしまう。

自分でも驚くほど、心臓は強く打っている。
指先が布の上から胸をなぞるたび、
体の奥に溜まっていたものが、静かに揺さぶられる。

息が、少し荒くなる。

布団を跳ね除ける。
次いで、熱を帯びた腰を大きく浮かせた。

藤野の姿を思い出すたび、
身体は、正直すぎるほどに応えてしまう。
坂井は目を閉じ、
自分の内側に溜まっていく昂りを激しく握りしめていた。

それは、これまでも定期的に処理する為の行為としていたものだったが、
今のこの昂りは、若い頃のような、切実で、熱を伴う時間だった。

やがて、爪先まで走る軽い痺れにも似た快感と共に、張り詰めていた体から、ふっと力が抜ける。
残ったのは、
熱と、微かな虚しさ、
そして、
それでも消えない、
藤野への想いだった。

......これは、もう、ただの衝動ではない。

藤野という存在が呼び起こしてしまった、
男としての自分を、
今夜だけは否定せずにいたい。

そう思いながらも、
それはその夜に限った事ではなくなっていた。

ある夏の昼下がり、
昼間の暑さは容赦なく体力を削る。
坂井は午前の作業を終え、戸をすべて開け放ったまま、座布団を枕にして、縁側から続く居間に身を横たえた。

風はほとんどない。
蝉の声だけが、やけに近くで鳴いている。

汗をかいたシャツが肌に張りつき、
そのままの格好で、いつの間にかまどろんでいた。

......修。

はっきりと姿を見る前に、
胸の奥がざわついた。
あの体、あの背中、あの声。

夢の中で、坂井は藤野を追っていたのかもしれない。
理由は分からない。
ただ、体だけが正直に反応していた。

無防備に横になったまま、
腰の辺りに力が集まり、
布の上からでも分かるほど、形が異様に主張していたようだ。

その時だった。

「……賢治さん?」
遠くから、低い声を聞いたような気がした。

坂井は、ぼんやりと目を開け、半身を起こして辺りを見たが、誰も居なかった。
自分の股間の盛り上がりに気付き、自然な流れで作業ズボンの中に右手を差し入れて強く握りしめて、身を捩った。

一方、男らしさを主張する坂井の、無防備な寝姿を、図らずも見てしまった藤野は、胸の奥が焼けるように熱かった。

あの日の坂井の肩や胸をなぞった感触が、
否応なくよみがえっていた。

見なかったことにするのが精一杯の配慮だと思った。
静かに敷地の外へ出ていく。

書類を縁側に置いたまま。
それが昼寝姿を覗いたという、坂井へのメッセージになる事など、その時の藤野には考えを巡らす余裕さえ無かった。

昼間からの秘め事の後始末をして、縁側に出て見ると、藤野に頼んでいた住民アンケートの書類が入った封筒が置かれていた。

血の気が一気に引き、動きがぎこちなくなり、冷たい汗が吹き出す。
(見られたのか?)
還暦過ぎた親父の痴態を、、、

だが、もう遅かった。
蝉の声だけが、やけに騒がしい。



午後の作業を早目に片付けた後、農家組合の会合のため、坂井の家に集まった他の仲間たちは用件を済ませて、すでに帰路についていた。
藤野は片付けを手伝うため残っていた。

縁側に差し込む光が少し傾き、更に広がった雲が日差しを隠していった。
やがて、外で雨粒が土を叩く音がした。

夕立ちだった。

急に強くなった雨脚に、二人は思わず顔を見合わせる。
......あの時も、こんなふうだった。
胸の奥で、同じ記憶が同時に立ち上がったのが分かる。

だが、今日は違う。
振り返って確かめ合うことも、距離を保つことも、もうしないと、互いに決めていたように。

坂井が一歩、近づく。
藤野も、それに応えるように半歩、詰める。

触れたのは、まず指先だった。
偶然を装うには、あまりにもゆっくりで、確かな動き。

手と手が重なり、
次いで、胸と胸が、そっと合わさる。

布越しに伝わる体温。
鼓動が、互いに分かるほど近い。

坂井は、藤野の顔を見上げた。
鋭さの奥にある、柔らかな眼差し。
その目が、迷いながらも、逸らされない。

「俺は......」
坂井の言葉に、藤野は、息を整えるように一度だけ瞬きをし、
静かに顔を近づけた。

言葉は、要らなかった。

唇が、重なる。

最初は、ほんの一瞬だった。
触れたかどうかも曖昧なほどの、ためらいを含んだ接触。

けれど、離れなかった。

坂井の呼吸が、わずかに深くなる。
藤野もまた、息を吸い直すように、唇を重ねたまま角度を変えた。

静かな動きだったはずが、
次第に、確かさを帯びていく。

藤野の手が、坂井の背に添えられる。
肩甲骨の下、働き続けてきた体の線をなぞるように。
坂井は、その手の温もりに応えるように、藤野の腰へ腕を回した。

胸と胸が、強く当たる。

布越しでも分かる鼓動。
互いの呼吸が混じり、熱を持つ。

もう、確かめる必要はなかった。

唇は、次第に深く、
唇の隙間から互い舌が割り込んで来る。
静かな触れ合いは、欲を帯びた動きへと変わっていく。

藤野は堪えきれないように、
坂井を引き寄せた。

力の入った腕。
逃がさないと告げるような、強い抱擁。
そして激しい口付け。

坂井もまた、躊躇を捨てる。
両腕で藤野の背を抱きしめ、
その存在を確かめるように、指に力を込めた。

.........長かった。

言葉にしなかった時間。
抑えてきた視線。
触れたいのに、触れなかった日々。

それらが、一気に溢れ出す。

唇を離す間も惜しむように、
再び求め合い、
息が乱れ、体が自然と動く。

藤野の手は、坂井の肩から胸へ、
坂井の手は、藤野の背から腰へ。

互いの体を、探るのではない。
確かめ合うのだ。

ここにいる。
欲している。
もう、引き返さない。

夕立ちは、なお激しく屋根を打ち続けている。
その音に包まれながら、二人は我を忘れ、
ただ、強く、強く抱きしめ合っていた。

唇が離れた瞬間、
二人は思わず息を整えるように、ほんのわずか距離を取った。

その沈黙の中で、
先に声を落としたのは藤野だった。

「……賢治さん」

低く、掠れた声。
それだけで、坂井の胸の奥が強く揺れる。

「修……」

今度は坂井が応えた。
名前を呼ぶという、それだけの行為が、
これほどまでに重みを持つとは思わなかった。

視線が、絡む。

逸らそうとして、逸らせない。
互いの呼吸、喉の動き、わずかな体の前傾。

そして、
自然に、再び引き寄せられていた。

今度は、ためらいがなかった。

胸がぶつかり、
腰の位置が重なる。

布の上からでもはっきりと伝わる、
抑えきれない体の張り。
互いに、もう隠しようがないほど、熱を孕んでいる。

「……っ」

短い息が漏れる。

藤野は、堪えきれないように、
坂井を強く抱き寄せた。
その動きに応えるように、坂井の腕も、自然と藤野の腰へ回る。

さらに密着する。

下腹部同士が触れ合い、
その存在を、否応なく意識させられる。

はち切れそうなほどの緊張感。
体の奥に溜め込んできたものが、
今にも溢れ出しそうだった。

坂井の手が、藤野の背中から、
ゆっくりと下へと移動する。

そして、
藤野の尻に回した手に、ぐっと力を込めた。

逃がさない、とでも言うように。

藤野もまた、
坂井の体を抱え込むように、腕に力を込める。
坂井に、己の下腹部の熱さを伝えたかった。
二人の間に、隙間はない。

息が、唾液が、混じり合う。
布越しの下腹部にが溶け合う感覚に、
鼓動が、重なる。

理性は、もう意味をなさなかった。
残っているのは、
ここまで抑えてきた想いと、
相手を求める、どうしようもない衝動だけ。

夕立ちの音が、外界との境を遮断する。
その中で二人は、
名前を呼び合いながら、
強く、深く、抱きしめ合っていた。

------ようやく、辿り着いた場所で。


夕立ちの音が弱まり、屋根を打つ雨粒がまばらになった、その時だった。

「おーい、賢治さーん」
戸口の向こうから、聞き慣れた声がした。

二人は、同時に我に返った。
重なっていた体が、名残を引きずるように、ゆっくりと離れる。
肩で息をし、汗ばんだ額をそのままに、坂井は慌てて一歩下がった。

戸を開けると、さっきまでの雨で少し湿気を帯びた風がそよいでおり、
ひと雨ごとに、夏の暑さが和らぎ、朝夕の空気は間も無く秋と思わせるようだ。

そこには農家仲間の清水が立っていた。

清水の手には風呂敷包み。
どうやら、さきほどまでの会合の時に言い忘れた連絡があったらしく、
ついでに、清水のカミさんが作った惣菜を、坂井に持って来たらしい。

「いやあ、突然すまんな。
 さっきの話、言い忘れてたんだけど・・」
清水はそう言いながら、居間に視線を巡らせ、
二人の様子にふと眉を上げた。

「……随分、暑そうだな?」

坂井は一瞬、言葉に詰まったが、
すぐに藤野が口を挟んだ。

「家具、動かすのちょっと手伝ってたんです。
 湿気もあって暑いっす……」
そう言って、軽く笑う。

清水は納得したように頷き、
「そりゃ大変だ」と、それ以上踏み込まなかった。

清水の用件はすぐに済み、坂井との雑談が始まっていた。
風呂敷包みが縁側に置かれる。

夕立ちはすっかり止み、
雲の切れ間から差し込む光は、すでに白さを失い、
家の中を橙色に染め始めていた。

「じゃ、俺はこれで」
藤野はそう言って立ち上がり、
一瞬だけ、坂井を見る。

ほんの短い視線。
だが、そこには、先ほどまでの熱と、
それ以上の決意が、静かに宿っていた。

「……また」
それだけ言って、藤野は外へ出た。

清水の話を生返事で聞き流しながら、坂井は、夕暮れの庭先を歩いて行く藤野の背中を見送った。

胸の奥で、はっきりとした感覚が芽生える。
それは恋情でもあり、欲でもあるかも知れないが、
これまでの躊躇いも、言い訳も、
あの夕立ちと一緒に流れ去った。

雨に洗われた土の匂い。
夕陽に照らされる畑。
すべてが、妙に鮮明だった。
......次に会う時は。

坂井は、静かに息を吐き、
夕焼けの空を見上げた。

男としての覚悟が、
ようやく、胸の底に落ち着いた瞬間だった。

〈つづく〉
26/02/17 14:39更新 / 卯之助

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