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夕立ち 第一章 畦道の向こうから
第一章 畦道の向こうから

麦畑を渡る風が、初夏の陽射しをやわらかく散らしていた。
坂井賢治(さかいけんじ)は軽トラックの運転席から空を見上げ、額の汗をぬぐった。六十二歳、三人の娘達を育て上げ、3年前に妻が突然の病で旅立ち、昨年末の娘が嫁入りしてからは、家の広さを持て余し気味であるが、これまでこの地で農を営み、季節と共に生きてきた。

その日、隣の畑に背筋を伸ばして立つ人影があった。麦わら帽子の下、日に焼けた顔。肩や腕の筋肉は若さと落ち着きの狭間で存在感を示している。

「おはようございます」
低く、落ち着いた声が響いた。

「おう、あんたが……新しく越してきたって人か」
坂井はつい視線を相手の全身に流した。腰骨のあたりがしっかりと張り、シャツの下で胸の形が息に合わせてわずかに上下しているのが見える。

相手は藤野修(ふじのおさむ)、四十八歳。都会での会社勤めを3年前に辞め、農業アカデミーで一年、農家見習いをニ年やって、今年妻と共にこの地へ移り住み、新規就農の道を選んだ男だ。


「藤野と言います・・
これからの季節は朝の作業が勝負と聞いてましてが、みなさん早くから出ているんですね。」
藤野が笑う。歯並びがきれいで、その笑みの奥に疲れ知らずの若さが覗く。

「まぁ無理せずにやることだな。俺は坂井・・農家組合の雑用やってるから、何かあったら何でも聞いてくれ。」

言葉を交わすうちに、坂井は妙な感覚に包まれた。
この歳になっても、人の体の作りや仕草にこうも心を奪われることがあるのか――そう思うと、胸の奥が少し熱くなる。

何気ない会話の中、二人の視線は時折絡まり、そのたびに微かな緊張が走る。
それは、農作業の合間の水分補給のように、一瞬で通り過ぎてしまうが、確かにそこに熱があった。

それから暫くして、畦道ですれ違ったとき、藤野の手がふと坂井の肩に触れた。
手袋越しにも、しっかりとした握りの感触が伝わってくる感触。
坂井の胸の奥に、思いがけず波紋が広がった。

――この感覚は何だ?
互いに既婚者であり、ただの近所の農夫同士。それ以上ではないはずだ。
それでも、藤野のたくましい前腕や、土と汗の混じった匂いが、印象に残った。

坂井は、畑仕事の手を止め、藤野の背中を見送った。
陽光に照らされるその背中が、やけに眩しく見えた。



藤野は、耕し終えた畑を見渡しながら、汗のにじむ額を腕で拭った。
この時期の夕陽はまだやわらかいが、土を掘り返す作業は体に確かな疲れを残す。
その疲れの奥で、ふと坂井の姿が浮かんだ。

六十二歳にして背筋の伸びた姿勢。
しっかりとした肩と胸、腰回りは年齢に相応しく少し脂の乗っているが、むしろ頼もしくも感じさせる。
土にまみれた手や爪さえも、無駄がなく力強い。
その男らしさの中に、笑ったときの口元の柔らかさや、少し恥ずかしそうに目をそらす仕草――それらが妙に心を引き寄せる。

藤野の人生は、表向きは一直線に見えるかもしれない。
だが、内側には誰にも言えない幾つもの記憶がある。

大学時代、指導教授との「個人授業」があった。
書庫の奥で原稿の束を挟んだ机越しに感じた、あの緊張と高揚。
最初は戸惑いが勝っていたはずなのに、気がつけば数年にわたり続く関係となり、藤野の中に「年上の男への特別な感覚」が根付いていった。

社会人になると、取引先の役員と知り合い、今も2ヶ月に一度は会う関係だ。
ただ身体を求めるためだけでなく、ある種の信頼と支配、そして互いに求め合う暗黙の了解で成り立っていた。

三十歳で結婚し、二人の子を育てながらも、家庭の外のもう一つの自分を消すことはできなかった。

やがて、藤野は都会の光の中で暮らすより、広い空の下で土に触れて生きる未来を望んだ。

坂井と出会ったとき、藤野はすぐにその「二つの自分」が反応するのを感じた。
無骨な腕、長年の労働で厚みを増した肩、そして笑うときの目尻のしわ。
そこに男らしさと、どこか守ってやりたくなる可愛らしさが混じっている。

――あの人を前にすると、自分の能動的な一面が疼く。
その思いを、藤野は土と汗の匂いの中で静かに温めていた。



坂井は、朝の作業を終えると、古びた倉の隅に腰を下ろし、湯飲み茶碗を両手で包んだ。
風が稲の葉を擦り合わせ、遠くで鶏の声が混ざる。
そんな景色は、若い頃から変わらない。

地元の高校を出て、二十代半ばまで町の会社に勤めた。
結婚を機に実家へ戻り、家業を継ぐことになったのは、三男坊としては珍しく見られたが、坂井自身としては自然な流れだった。
兄たちは家を離れ、幼い頃から親に可愛がられた坂井が跡を継ぐのは、誰にとっても納得のいくことだった。

実家に戻って間も無く、父は世を去ったが、父方の叔父が坂井を支えてくれた。
力強い腕、穏やかな声、そして時に鋭い視線。
手伝いを終えて縁側で休むとき、肩に置かれる手の温もりに、言葉にはならない何かが宿っていた。
やがて二人は、家族の枠を越えた密やかな男同士の絆で結ばれた。

その関係は、十五年ほど前に叔父が亡くなるまで続いた。
坂井にとって叔父は、男としての自分を目覚めさせ、密かな快楽の世界へと導いてくれたただひとりの存在だった。
悩みながらもどちらも大切な存在として、妻子には隠し通した関係であった。

死別の後、寂しさに押されて年上の男と刹那の関係を持ったこともあった。
けれど、それは一時の慰めに過ぎなかった。
誰と会っても、心の奥にある慕情は、叔父にしか向かない。
そのことを悟ってからは、欲情は胸の奥に沈め、自らの手で静かに慰める日々を選んだ。

夜の寝床で思い出すのは、叔父の笑い声、作業着越しに感じた体温、目が合った時のわずかな間――
それらは、どれほど時が経っても消えない。

そんな坂井の前に、藤野が現れた。
年下でありながら、落ち着いた物腰と、土に根を下ろそうとする覚悟。
そして、ふと見せる笑顔に、胸の奥の水面が静かに揺れる。

坂井は叔父に包まれる安らぎと、慕情を胸に生きて来たのに、年下の藤野が気になっている自分に戸惑っていた。
坂井はまだ、その揺れを「惹かれた」とは呼んでいない。
だが、藤野の姿が視界から消えた後も、その余韻は夜まで残り、体の奥で、じんわりと熱を広げていくのだった。



地域の交流会の帰り道、ポツポツと落ち始めた雨粒は、あっという間に本降りになった。
「こっちだ」坂井が手招きし、藤野を作業小屋へ導く。
古い木の扉が閉まると、屋根を叩く雨音だけが世界を支配した。

二人の作業着はすっかり濡れ、布地が肌に張り付いている。
薄い布越しに、逞しい肩や胸の輪郭が浮かび上がり、雨で乱れた髪が額に張り付いていた。
藤野は、坂井の腕に刻まれた筋や、濡れた布地の下に覗く胸板から目を逸らせない。
息を吐くたび、互いの体温と酒の匂いが混じり合い、狭い空間を満たしていく。

「結構降ってきたな」坂井の声は、雨音に溶けるように低く響く。
その近さに藤野はうなずくしかなかった。
動いた拍子に肩が触れ合い、布越しに温もりが伝わる。
ほんの些細な触れ合いなのに、胸の奥で何かが跳ねる。

視線が自然に絡まり、互いの目の奥を探るように見つめる。
言葉は交わさないまま、呼吸がゆっくりと、そして浅くなっていく。
その距離が、もう一歩近づけば――というところで、ふたりともふと我に返る。
けれど、熱を帯びた沈黙は、雨が止むまで消えることはなかった。

坂井が「風邪ひくぞ」と言いながら、作業着の前を開けた。
濡れた布が肌から剥がれるとき、微かな音とともに水滴が床に落ちる。
藤野も上着を脱ぎ、腕まくりした手で水気を軽く絞った。
狭い小屋に、雨の匂いと男の体温が混ざる。

藤野の目は、自然と坂井の全身を追っていた。
鍛えられた肩や厚い胸板――それだけでなく、濡れたズボンが太ももに張り付き、逞しい脚の形を浮かび上がらせている。
股間のあたりも布が肌に密着し、その存在をはっきりと主張していた。
藤野は、それを目にした瞬間、胸の奥で何かが熱を帯びるのを感じた。

「すごいな…」思わず言葉が漏れる。
坂井が怪訝そうに「何が?」と問う。
藤野は、ほんの少し笑みを浮かべ、一歩近づいた。
「この腕…畑仕事の賜物だなと思って。しっかりしてる」
手を伸ばして坂井の前腕を握る。硬く締まった筋肉の感触に、藤野の指先が僅かに震える。

坂井は少し照れたように、「お前、酔ってるだろ」と顔を背けた。
藤野は低い声で、「酔ってるけど、嘘は言ってない」と返し、肩から胸へと手を滑らせる。
掌に伝わる温もりと、雨粒がまだ残る肌の湿り気――その両方が、藤野の内側をじわりと熱くする。
指先が坂井の胸の頂に触れ、坂井が藤野を見上げてだ時、慌てて手を引っ込めながら
「すみません・・」と言った後は沈黙が続く。

視線は何度も、坂井の腰のあたりへと戻ってしまう。
触れはしないが、その逞しさと重みを想像するだけで、呼吸が浅くなるのを抑えられなかった。

雨が小屋の屋根を叩き続けてている。
しかし小屋の中で、藤野の鼓動はそれ以上の速さで鳴っていた。

雨が小降りになり、二人は小屋を後にした。
湿った土の匂いを運ぶ風の冷たさが、わずかに火照った頭を冷やす。

坂井は歩きながら、胸の奥が妙にざわついているのを感じていた。
年下の男――しかも新しくこの土地に来たばかりの藤野に、あんなふうに触れられるなんて思いもしなかった。
濡れた服越しに肩や胸に伸びた手は、迷いがなく、それでいてやわらかかった。
そして、その瞬間、藤野の視線が自分の胸や腰をまっすぐになぞっていたのを、坂井は覚えている。
冷えた空気に反応して硬くなった胸の頂、濡れた布の下でわずかに持ち上がっていた股間の熱――あれは確かに見られたのだ。

だが、坂井もまた見てしまった。
藤野の腰のあたり、濡れた作業ズボンが肌に貼りつき、形を隠しきれないほど張りを増していたのを。
あの時、藤野の体も自分と同じ熱を宿していた――そう思うと、胸の奥に甘いざわめきが広がる。
「……馬鹿だな、俺は」小さく吐き出す声には、自分への呆れと、どうしようもない高鳴りが混ざっていた。

藤野は、そんな坂井の横顔を盗み見ていた。
さっきまで触れていた厚みのある胸、鍛えられた筋肉、そして濡れた服越しに見えた体の線と隆起。
彼の視線は何度も胸の頂を往復し、股間の膨らみを追った。
それらが頭から離れない。
抑えきれぬ欲望を胸に押し込めて、ただ黙って歩幅を合わせる。
心の奥底で繰り返すのは、切なさと期待が入り混じった思いだった。
「また会いたい…」
けれど、ここで踏み込めば坂井は距離を置くと分かっていたから、ただ歩幅を合わせ、黙っていた。
田んぼ道を渡る風が火照った頬と胸をなぞる。
藤野は唇を固く結び、その熱を外に漏らさぬよう押し込めたが、胸の奥で静かに疼き続けていた。

二人は並んで歩く。
空は雲の切れ間から夕陽をのぞかせ、濡れた道が金色に輝いていた。
そして、互いの胸の奥では、小屋で交わした視線と、目に焼き付いた体の記憶が、いつまでも温かく残っていた。



雨宿りした小屋の中で触れ合った感触が坂井の胸に焼きついていた。
夜、部屋でひとり、坂井は布団に身を沈めても目が冴えていた。
雨音は静かになったが、心の中のざわめきは止まらない。
藤野の指先が肩に触れたときの温かさ、視線が自分の身体を滑ったときの鮮やかさ。
そして、あの時濡れたズボンの下に見えた藤野の熱が、自分の胸に甘く響いていた。
「俺はこんな気持ちを抱いていいのか……」思いを押し殺そうとしても、身体は正直に反応し、手が自然に股間に伸びる。

一方の藤野もまた、何度もその記憶を反芻していた。
坂井の逞しい胸板、濡れた服越しに見えた身体の輪郭、そして何よりも、触れたときの指の感触と高鳴り。
藤野は帰宅後の風呂で、下腹部に集中する熱を扱き立て、激しくその精を飛ばし、そして虚脱した。
そこには、妻子のこと、土地のこと、坂井のことを考えると、どうしても欲望を行動に出せない自分がいた。
「また会いたい」という思いが波のように押し寄せるたび、胸が締めつけられる。

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