妻の祖父 ーその2ー
清蔵の孫と結婚した陽介は、普段は家族と隣町に住んでいる。 週末や祝日、あるいは農繁期になると、家族連れ立って山間の里へやってきた。 土曜や日曜の朝、隣町から陽介家族が車を走らせてきた。曽孫は清蔵に向かって駆け出し抱きついて来る。陽介はいつものように作業着に着替えて現れた。 里美は台所で母親と漬物の樽を見ながら何やら話している。 里美の父親はパチンコに出掛けているらしい。 清蔵は納屋の隅に置かれた鋸を手にしながら、ちらと陽介に目をやる。 視線が交わると、どちらからともなく小さくうなずいた。 「……山の上の、柵が一部崩れててな。今日、行っておこうと思ってる」 「ええ。ご一緒します」 言葉少なに家を出たふたりは、林道を抜け、少しずつ標高を上げていった。 陽介は、歩きながら何度も清蔵の背中に目をやった。 小柄だが、鍬を何十年も振るってきた男の肩幅と、引き締まった腰の動き。 ――この人を抱いた。 そう思うだけで、身体が熱くなる。 山に着く頃には、汗が肌着をじっとり濡らしていた。 倒木の片づけを済ませると、ふたりは小さな沢のそばに腰を下ろす。 静かな音を立てて流れる水に、陽介は手を浸した。 すっと伸びた指の上に、清蔵の手が重なった。 「……また、あのときのように、してくれるか」 低い声だったが、かすかに熱を帯びていた。 陽介は黙ってうなずくと、立ち上がり、清蔵の前に膝をついた。 褌の結び目に手を伸ばし、そっと解く。 厚い布の奥から現れた清蔵のものは、すでに重く熱を持っていた。 陽介はそれを見上げながら、丁寧に口づけを落とした。 唇を沿わせ、舌を這わせ、やがて深く含み取る。 清蔵の指が肩に置かれ、ふっと息を漏らす。 「……あぁ、うっ、……陽介、……」 陽介は何も言わず、ただ舌を使い、根元まで飲み込んでいった。 じわりと感じる清蔵の体の反応、そしてその温かさが、陽介の中で何かを引き裂いていく。 陽介自身もまた、下穿きの奥で抑えようのない熱を感じていた。 その膨らみに気づいた清蔵が、ふと唇を噛むようにして言った。 「今度は……俺が……おまえを、抱いてみたい」 陽介は驚いたように目を上げたが、すぐに頷いた。 「こんな老ぼれでも、陽介が受けてくれると思うと、若返った気持ちになる」 清蔵は、忘れかけていた男としての胸の高鳴りを感じていた。 ふたりは敷いたタオルの上に並び、陽介がうつ伏せに身を横たえる。 腰のあたりに清蔵の手が触れ、濡らした指が静かに後ろに添えられた。 「……痛くしたくない」 「……平気です。清蔵さんなら……構いません」 指が慎重に入ってきたとき、陽介の肩がわずかに震えた。 それは拒絶ではなく、むしろどこか懐かしさに似た感覚だった。 やがて清蔵のものが、ゆっくりと陽介の秘部に当てられる。 陽介の中を進むのに十分な硬さを保った清蔵の陰茎は、丸く熟した果実を半分切り取った様に、陰茎の先端と幹に高い段差を作っていた。 清蔵の陰茎の段差を飲み込んだ陽介の秘孔、少し反り加減で血管の浮き出た清蔵の陰茎は、その中を奥までゆっくりと進んで行った。 息が漏れ、背中の筋が張りつめた。 「……ああ……っ」 清蔵は優しく、何度も問いかけるように動いた。 そのたびに、陽介の中で何かが溶け、滲み、清蔵の孤独と痛みが陽介の熱いうねりの中で少しずつ癒えていくようだった。 やがてふたりは完全に繋がり、互いの息づかいだけが、山の静けさの中に重なっていった。 「……陽介……」 「清蔵さん……」 互いの名を呼びながら、ひとつの身体に、ひとつの鼓動に溶けていく。 そして深く、長く――ふたりの中で何かが確かに結ばれた。 清蔵が体を前に倒し、陽介の厚い胸筋を清蔵が両手で支えると陽介は振り返る形で、二人は唇の端を切なげに重ねた。 愛しげな眼差しの陽介を反転させ、清蔵は正面から再び陽介の中に腰を入れて行く。 清蔵にみなぎる男らしさに圧倒された陽介は、ただ清蔵の動きに身を任せる。 そして、陽介の胸に倒れ込む様にして清蔵は果てた。 それは、陽介と清蔵の腹に挟まれて濡れそぼる陽介の陰茎から白濁の精が飛び散るのとほぼ一緒だった。 しばらくして、清蔵が陽介の背中を撫でた時、陽介は静かに言った。 「……俺……この先もずっと、こうしていたいです」 清蔵はうなずいた。 血肉を分けた存在として、胸が熱くなる。 それが許されないことだとしても、この時間だけは、互いに嘘をつかずにいられる。 太陽が少しずつ傾き、草の匂いが強くなる頃、ふたりは身を整えた。 日常へと戻る準備をするために。 だが、その日常の中にはもう、決して消えることのない絆が、静かに根を張っていた。 妻里美の父――つまり清蔵の養子にあたる男は、若い頃からどこか頼りなく、家業の山や畑の仕事にも深入りしなかった。 自分が一人っ子であることをどこか甘えにしていたような節があり、話も自分中心、気の向くまま。 ただし里美や孫のことは愛しており、傍目にはそれなりに“優しい父”で通っていた。 陽介にとっては、そんな義父とはどこか距離を感じざるを得なかった。 愛想はしたが、心を寄せることはなく、表面的なやり取りにとどまっていた。 ――それに比べて、清蔵は違った。 静かで、無口で、だが一本芯の通った眼差しをしていた。 言葉は少なくても、作業のひとつひとつに誠実で、土に触れる手にはどこか温もりがあった。 最初は「父親のような存在」だった。 けれど、次第に――それだけではない思いが胸に芽生え、そして交わった日から、陽介の中の清蔵は、完全に別の意味を持ちはじめた。 日没の早くなった秋の夕暮れ時の納屋の奥。 「今日は……裏の倉の整理をするって、皆に言っておいた」 誰も入らない古い道具小屋。 陽介が持ってきた灯油ランプの明かりが、すすけた木の壁に揺れていた。 「……ここ、誰も来ないんですね」 「もう十年は使っておらん」 清蔵が古びた座布団を並べ、その上に風呂敷を広げ、陽介と向かい合って腰を下ろす。 ふたりの間に、音がない。鳥の声も、風の音も、遠くへ退いている。 陽介の手が、そっと清蔵の手に重なる。 ごつごつと節ばった指。土に染まった爪。 その下にある、柔らかくあたたかな皮膚の感触を、陽介は大切そうに確かめるように撫でた。 「……こうしてると、なんだか夢みたいです」 「……こんな夢があるか」 清蔵の声は、かすれ気味だったが、熱がこもっていた。 陽介が、清蔵の肩に頭を寄せる。 厚い胸板が、ゆっくりと上下し、肌の匂いがほんのりと鼻先に届いた。 石鹸の残り香と、汗の混じった男の匂い―― それは陽介にとって、懐かしいようで、決して忘れられない安らぎの香りでもあった。 やがて、ふたりの唇がそっと重なり合う。 そして舌先が互いを求め合うように絡んで行く。 清蔵は不器用に、それでもまるで水を汲むように、陽介の背を抱き寄せた。 互いの間にわずかに残っていた距離が、音もなく溶けていく。 陽介の手が、清蔵の胸を撫でる。 指先が、年輪のように刻まれた筋肉の起伏をなぞる。 その動きに、清蔵の喉がかすかに鳴った。 「……清蔵さん、こうしてると、全部が報われたような気がするんです」 「報われるようなこと、何ひとつしとらん、ただ陽介が愛しいだけだ」 「それだけで良いのですよ……俺には、十分すぎるくらいです」 陽介の言葉に、清蔵はそっと額を寄せた。 やがて清蔵と陽介は褌の紐を解き、ランプの灯りで互いの姿を眺め、吸い寄せられるように再び抱きしめ合っていく。 背中から腰に降りてきた手で、互いの腰をぶつけ合うように体を重ねると、溢れたヌメリで微かに、湿った音が漏れた。 初めて二人が秘密を交わしてから何年か過ぎた今、清蔵に貫かれる陽介も、陽介に精を注がれる清蔵も、それぞれの胸の内には、互いへの思いが育まれているのを感じていた。 ひと時の交わりの後、額を寄せ合うふたり、 その静かな接吻は、まるで祈りのようだった。 こうして、陽介がやって来る日には、互いに目と目で会話するだけの時もあれば、その先を求めて、山仕事の合間、作業後の風呂場、倉の裏手、古い牛小屋―― 人の目の届かぬところで、ふたりは幾度となく肌を重ねた。 ある日、里美の父が何かのことで不機嫌になり、縁側で新聞を叩きながらぶつぶつ言っていた。 陽介は軽く会釈をして台所へ向かう。 清蔵が梅干しの瓶を布で拭いていた。 「……すまんな。あいつは昔から、ああだ」 小声でぼやいた清蔵に、陽介はそっと背を寄せた。 「いいえ。慣れてますから」 誰にも見られない廊下の陰で、清蔵の腰に手を回す。 「清蔵さんがいるから……俺はここに来ているようなものです」 その言葉に、清蔵の手がふるりと震えた。 陽介は思う―― この人を、守っていきたい。 この人の人生の残りに、自分が寄り添えるのなら、どんなかたちでも構わないと。 彼らの秘密は、日々の生活の中に埋もれていた。 誰にも悟られることなく、静かに、深く、ふたりの心を結びつけていった。 清蔵が、何かを言いかけてはやめるとき。 陽介が、少し照れたように見つめ返すとき。 そのあいだに流れる空気に、誰も気づかない。 けれどそれは、ふたりにとって確かに、家族という輪の中にある、もうひとつの“愛”だった。 別の日。昼下がりの畑の裏手、木陰にひっそりと据えられた水桶のそば。 作業の合間にふたりは腰を下ろし、手拭いで汗を拭っていた。 陽介が、そっと清蔵の膝に手を置く。 「……この匂い、好きです」 「汗臭いだけだ」 「違います。安心する匂いです」 何気ないやり取りの中に、言葉にならない情が宿っていた。 人目のない場所でしか交わすことのできない熱。 清蔵の節くれだった手が陽介の作業服の上から股間に添えられる。 そこは既に窮屈な程に盛り上がり、熱を帯びてその存在を示していた。 どちらからともなく、地面に倒れ込み、互いの背に回した腕に力がこもる。 今となっては、若い陽介に身を任せるように抱かれる事の多くなった清蔵であったが、口付けと胸の頂きへ陽介の指が触れると、にわかに腰の奥から陰茎に熱い血潮が流れて行く。 そして、陽介に向かって老いた体を開いて行くのである。 だがそれは、ただの欲ではなく、互いの存在を確かめ合うための、静かな儀式のようでもあった。 陽介の若さと清蔵の歳を重ねてもなお忘れ得ぬ男の魂が結びつくのに、時間も場所も関係しない。 ふたりの行為を誰かが見ていたわけではない。 けれど、里美や家族は知らずとも、どこかでその穏やかな変化を感じ取っていたかもしれない。 「おじいちゃん、なんだか楽しそうだね」 帰宅した玄関先での孫の一言に、清蔵は少しだけ目を伏せ、笑った。 その笑みには、誰も知らぬ心の灯が、静かに灯っていた。 それは、春の終わり、田植え前のある日だった。 朝から少し頭が重いと感じていた清蔵は、昼を過ぎたころ、ふいに手元が揺らぎ、鍬を握ったまま膝をついた。ほどなく意識は戻ったが、身体に力が入らず、その場に座り込んだまま動けなくなった。 偶然にも、たまたま休暇で手伝いに来ていた陽介がすぐに駆けつけた。 「清蔵さん、しっかりしてください!」 陽介の声が、焦りに滲んでいた。 その腕に抱き起こされると、清蔵はかすかに笑みを見せた。 「……大丈夫だ。ちいと、立ちくらみだよ……」 「冗談はいいです、病院行きましょう。僕の町のほうが診てもらえる設備があります」 清蔵は、陽介の住む隣町の病院に運ばれた。 診断は、軽い脱水と心臓の機能低下。年齢相応の老化ではあったが、しばらくの入院と静養を勧められた。 「入院か……俺は、長く寝床におるような性分じゃないんだがな」 そう苦笑する清蔵の枕元には、毎日のように陽介の姿があった。仕事帰りに寄り、見舞い代わりに小さな和菓子を持ってくる日もあれば、休日には丸一日付き添って、本を読んで聞かせたり、農具の修理の話をしたりした。 時に無口になりがちな清蔵も、陽介の顔を見れば、少しだけ表情が緩む。 ある夜、病室の灯りが落ちてからのことだった。 カーテン越しの月明かりの中、陽介が静かに立ち上がり、そっと清蔵の手を握った。 「……清蔵さん。ごめんなさい、こうしてると……」 その言葉の先を口にせずとも、清蔵にはわかっていた。 陽介の掌に宿るぬくもりが、言葉よりも雄弁に、彼の欲と、寂しさと、焦りを伝えていた。 清蔵は、静かにその手を引き寄せ、自分の胸にあてがった。 「……陽介。気持ちは、よう分かっとる。俺も、心ではおまえを欲しとる。けんど、身体が……もう前のようには……」 言葉を詰まらせると、陽介はかぶりを振り、囁くように言った。 「いいんです。ただ、触れていてくれるだけで……」 その言葉に、清蔵はそっと身を起こした。 痩せた腕で陽介の首を引き寄せ、唇を重ねた。 老いた唇の柔らかさに、陽介は目を閉じた。 深く、長く、触れるだけの口づけだった。 指先が、陽介の頬をなぞり、耳の後ろを撫でる。 陽介はその手を取って、自分の股間に導いた。 それを握る手は以前の力強さではなかったが、確かに陽介の形をなぞり、強弱を付けながら優しく握り締めていく。 そして、陽介の肩を胸に抱き寄せると、清蔵は低く、静かに言った。 「これが、いまの俺にできる精いっぱいだ……許してくれ……」 陽介は、ただ頷いた。 そして、 「俺ももう52です。ただ体を持て余していた若い時とは違う、清蔵さんの肌を感じるだけで十分ですよ」 その手は、清蔵の背を優しくさすっていた。 52歳で性欲が衰えるわけも無いが、清蔵と居る時はそんな気持ちになる。 「陽介、俺に見せてくれないか……」 その言葉に、陽介は立ち上がりベルトを外し下着もろもと股下までズボンを下げる。清蔵が愛しげに陽介の陰茎を握ると、陽介の陰茎は硬さを増し少しずつ反り返って行く。 「俺の前で、最後まで……頼む……」 清蔵の声は静かに陽介の耳に響く。 陽介は、粘り気のある汁が溢れる鈴口を手のひらで包みそのまま太い幹をぬるりと握り広めていく。 陽介の眼差しは清蔵を見つめ、清蔵はその視線を受け止めながらも陽介の右手の動きに目を細める。 これまで、二人が何度となく互いの中に交わした時の光景が陽介の中でフラッシュバックして、自然と腰が前後して行く、そして清蔵の眼差しを受けて陽介の男根は最大限に張り詰め、膝がガクガクと震える。 「陽介……」 「……清蔵さん……」 身体を重ねていないのに、まるで清蔵の中に押し込んだ時の様な感覚と熱さを陽介は感じて、 「はっっ、ウッ……」陽介の微かな呻き声が漏れた。 次の瞬間、清蔵に向かって飛び散る精が、寝具を汚さないように、その先端で構えた陽介の左掌にぶつかり、指の間から床に溢れるのを止める術は無かった。 最初の波から三度目四度目と、白濁の精と波打つ男根を清蔵は満足そうに眺めていた。 翌朝、看護師がカーテンを開けたとき、清蔵は枕に頭をのせ、陽介はその傍らの簡易椅子に腰掛けたまま、手を握っていた。 長年連れ添ったような、静かな光景だった。 退院後、清蔵の暮らしはゆっくりと変わっていった。 農作業は減り、裏の畑で小さく耕す程度になった。 だが、陽介が来るたびに、かつての元気が少しだけ戻るように見えた。 陽介が帰る夕刻、縁側に並んで腰かけると、孫娘の里美が台所から声をかけてきた。 「陽ちゃん、お義祖父さんと何しゃべってんの? 楽しそうに笑って」 「なんでもないよ、ただの昔話だよ」 そう応える陽介の声に、嘘はなかった。 そこにあるのは、過去と現在とをつなぐ、本当の“ぬくもり”だった。 退院後に89歳を迎えていた清蔵。 医師の言葉に反して、思いのほか元気を取り戻し、以前より身体は細くなったものの、庭に出ては季節の移ろいを肌で感じ、陽介の手を借りながら裏の畑を歩く程度には回復していた。 「こりゃあ、もう少し、生かされるんかもしれんな……」 そう言って、縁側で陽介と茶をすする姿は、時折訪れる孫たちの目にも、どこか穏やかに映った。 しかし、その年の秋の初め、連れ添ってきた妻が病で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。 風のように、あまりに静かに、そして唐突に。 納棺の翌朝、清蔵は仏間で妻の位牌に手を合わせながら、ひと言も発しなかった。 陽介がそっと背中に手を置いたとき、震える吐息と共に、ぽつりと漏らした。 「……置いて、行きおった」 その声には恨みも怒りもなく、ただ長年を共にした者のいなくなった、空虚だけが漂っていた。 それからというもの、清蔵はまた一段と口数が減った。 しかし陽介は変わらず、休日になるとやってきては、清蔵の傍らに寄り添った。 膝掛けをかけ、湯を沸かし、晩の膳に添える一品を台所でこしらえる。 清蔵が昔話を口にすれば、それを何度でも聞き返し、静かに笑ってくれた。 やがて、季節がめぐり、清蔵の身体も少しずつ動かなくなっていった。 それでも、陽介の肩に寄りかかりながら外の風に触れるのを、清蔵は心の拠り所にしていた。 「陽介、よう来てくれたなぁ」 「……ずっとここにいますよ、清蔵さん」 ふたりの会話は、もうほとんどがその繰り返しだった。 それでも、目が合えば微笑み、手が触れれば頷き合い、互いの存在を確かめていた。 清蔵が数え年九十九歳を迎えた年、家族だけで白寿の祝いの会を開いた。 「じいちゃん、長生きしてくれてありがとう!」 「おじいちゃん、まだまだ元気でいてね」 孫や曾孫たちが笑顔で賑わす座敷の奥、清蔵は陽介の手をそっと握っていた。 「……ありがとな。おまえのおかげで、俺は、ここまで……」 「こっちこそ。清蔵さんと出会えたこと、ずっと誇りです」 その晩、陽介はいつものように清蔵の部屋に泊まり、灯りを落とした後、布団の中で老いた手を握ったまま、眠りについた。 清蔵の肌は、すでに冷たさを含み始めていたが、それでも指先には確かなぬくもりが残っていた。 そして、それからふた月後のある朝ーー 清蔵は、静かに息を引き取った。 最期の瞬間まで苦しむことなく、まるで深い眠りにつくように。 家族に囲まれ、陽介の手を握ったまま。 「……ありがとう、清蔵さん」 陽介は誰にも聞かれぬように、小さく呟いた。 その手を離すことは、たしかに別れを意味した。 だが、それでもなお、胸の奥にはあのぬくもりが、確かに灯っていた。 葬儀がすべて終わった翌月、陽介は清蔵の家を訪れていた。 仏壇の遺影は白寿の祝いの時に陽介が撮った写真を使った。 線香を手向け手を合わせると、清蔵がかたりかけているようだった。 「陽ちゃん、悪いけど、じいちゃんの部屋の片付け、手伝ってくれる?」 そう言ったのは、里美だった。 陽介は頷き、久しぶりに清蔵の部屋に足を踏み入れた。 畳には、清蔵がよく座っていた座布団の跡がくっきりと残っていた。 机の上にはいつも聞いていたラジオ、使い込まれた茶碗、眼鏡。 ひとつひとつ手に取っては、そっと布に包んでいく。 誰にも知られずに、心の中で何度も別れを繰り返しながら。 箪笥の引き出しを開けたとき、不意に目に留まったものがあった。 きちんと畳まれた二枚の越中褌。 ひとつは白地にうっすらと藍染の模様があり、もうひとつは、少し柔らかく洗われた晒しのもの。 手に取ると、晒布の感触が掌に馴染んだ。 (……これは) 清蔵が普段使いにしていたものか、それとも特別な時のためだったのか。 わからなかった。だが、どちらも布の折れ目は丁寧で、洗い晒された清潔な匂いがかすかに残っていた。 陽介は、それを黙って風呂敷に包んだ。 誰にも言わず、何も訊かれず。 心の中で、ただひとことだけ呟いた。 「……持っていきます。清蔵さん」 それから数日後。 休日の午後、陽介はひとり自宅の風呂に湯を張った。 カーテンを閉め、ゆっくりと湯に身を沈める。 その傍らには、あの越中褌が用意されていた。 湯上がりの肌に、静かにそれを身に付ける。 腰に紐を結び端を通し、下腹に布が触れるたびに、あの日の記憶がよみがえる。 山で、病室で、縁側で── 数えきれないほど重ねた時間と、肌と、言葉のない想い。 褌は、ただの布きれだった。 けれど、身に着けると、清蔵の手がそこにあるような気がした。 (これで、また清蔵さんと一緒にいられる) 鏡の前に立ち、褌姿の自分を見る。 陽介も還暦を過ぎて昔と違い、腹に肉がつき、胸もいくぶん張ってきた。 もう若くはない。 それでも、身体のどこかにあの人が残っているように思える。 その思いだけで、生きていける気がした。 その晩、陽介は畳の上に敷いた布団に、褌のまま横になった。 胸に手を置き、目を閉じると、清蔵の低く穏やかな声が聞こえるようだった。 「陽介の手は、あったけぇな……」 「清蔵さん、あなたのこと、ずっと忘れません」 声には出さなかったが、胸の奥でそう答えていた。 やがて眠りに落ちるまでのあいだ、陽介は肌に感じる布の感触と、そこに重なる記憶を、静かに抱きしめ続けていた。 それは、もう交わることのない二人の、 それでもなお続いていく── ひとつの、確かな愛のかたちだった。 ――終わり。 |
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