■ 窓 - 窓 8(完)
二人の関係は、彼が事情が有り田舎に帰るまで15年ほど続いた。もはや体の相性も含めて夫婦のようになっていたので、いろんな選択肢を話し合ったが最後は二人で泣きながら別れることに決めた。最後の日は、電車の出発の時間限界まで何度も愛し合い、二人ともなかなか体を離すことが出来なかった。
「洋輔さんが居ない人生なんて意味がないよ。会いたくなったらどうしたらいい?」と私が言うと「何度も話し合ったろ。二人で決めたことだ。これは別れではない、新しい人生が始まると考えよう。体に気をつけてな」と泣きながら私を抱き寄せてくれた。「今まで僕を支えてくれてありがとう。洋輔さんも元気で」と不思議と最後に出てきた言葉は彼への感謝であった。「今生では結婚できなかったけど、生まれ変わってもまた会いたいよ」私も泣きながら声を振り絞って言った。彼は「また会えたら、必ず結婚しよう」と言い二人で泣き続けた。
彼は公私ともに支えてくれ沢山の愛情を注いでくれた。休みを合わせて二人で色んな所に旅行に行き、夜は数えきれないほど愛し合った。私にとって本当にかけがえのない充実した日々であった。あの頃の思い出はすべて私の人生の宝物だ。彼の独占欲や嫉妬深さも、むしろそれを含めて彼のすべてが愛しかった。 その後、あれほど好きになった男は事実一人もいなかったのである。一人残された私は、一週間ほど何も手につかず毎日勤務後アパートの窓を眺めていた。それから思い切って初めて合鍵を使って中に入ってみた。当然家具もテーブルもベッドも無くガランとした空き部屋だ。だがまだわずかに彼の匂いが残っていたのだ。確かに彼はここにいた。今まで不思議と現実感が無かったのに、彼の残り香を嗅いだ途端に彼との思い出が一気に溢れ嗚咽してその場に崩れ落ちた。彼がもういないという事実を受け入れてないのはまさに私自身であった。まだ一週間しかたってないのに、もう彼の顔が見たい、声が聴きたい、彼の匂いと温かい体温がたまらなく恋しい。しばらくの間、ガランとした空き部屋で、私は一人彼の名前を呼びながら泣きじゃくっていた。泣き疲れいつも二人で眺めていた見慣れたアパートの天井を見つめていると気分が少し落ち着いてきた。こんな事では新しい人生を始めるという彼との約束が守れない。自分がいかに彼に依存していたかが分かった。彼への執着を自分から解かないと前には進めないのだ。これからは、自分一人で生きていかなくてはならない。こんな毎日を送っていたら、彼も喜んではくれないはずだ。
それから間もなく腹を括り東京の勤務する病院の側に引っ越した。あのアパートはあまりにも思い出が多すぎて見ているのは辛かったのである。新しい彼氏も作らず勉強と仕事に専念したおかげでなんとか落ちこぼれずやっていくことが出来た。現在は東京でクリニックを開業している。駆け出しの頃、毎日疲れ切って帰ると必ず夕食の準備して待っていてくれた。それから一緒にお風呂に入り体を洗ってもらい、その日の仕事の話や愚痴を聞いてもらうのが日課であった。彼には甘えてばかりだった。彼の支え無しには今の私は無いのである。最後の日に二人で話し合い、今後連絡を取り合うのも止めることにした。電話で声を聞いたりまた会ったりすれば、次こそ二人とも本当に離れられなくなる事は分かっていたからだ。辛い別れは一回で十分だ。何回も同じ別れを繰り返したら心が壊れてしまいそうだった。互いにこれからの幸せを祈り、心が引き裂かれるような辛い決断をしたのである。
彼と別れてから5年が過ぎ、忙しい毎日を一人で夢中で生きてきた。誰も待つ人もいない家に帰ると寂しさばかりが押し寄せてくる。
最初の頃は無意識に「洋輔さん、ただいま!」と言ってしまい、そんな自分が情けなく玄関で泣いてしまった事もあった。毎日遅くまで仕事をして帰ると疲れ果てて寝るようにしていた。それでも通勤時、彼の面影を探して似た人を目で追ってしまう。寂しさも時間が解決してくれると思っていたのに、私の心が癒されることは無かった。仕事をしている時だけ、唯一彼の事を忘れることが出来た。二人で決めたことだったが、本当に正しい決断だったのだろうか。私たちは離れてはいけなかったのかもしれない。彼に付いて行った方が良かったのか、今でも答えが見つからない。15年も一緒にいた時間を忘れる事なんて私には出来なかった。 あの合鍵は今も手元に残っている。鍵を手に取るたび出会った頃の彼の精悍な横顔が今も鮮明に蘇る。鍵を握りしめ、泣きながら眠りにつく事も度々であった。
製薬メーカーからの治験や講演の依頼も増えたがすべて断らずクリニックと並行して頑張った。どんどん自分を忙しくして追い込み、この寂しさから少しでも逃れたかったのだ。頑張った分キャリアも積み上がり収入も増えていったが、欲しいものは何もないし一人では行きたいところも無かった。研修医の頃は、収入も少ないうえ奨学金の返済も有りお金がいつも無かった。実家は公務員で金銭的に頼る事は出来なかったし、当直のバイトで何とか赤字にならずに済んでいた。私の暮らしぶりを見て彼は十分に理解していたようだ。誕生日にはボロボロの財布や、カバンを見兼ねて新しいのをプレゼントしてくれた。毎日美味しい夕食を食べさせてもらい経済的にも助けてもらっていた。食費を払おうとしても、いつも受け取ってくれなかった。ようやく払えるようになったのは35才で奨学金の返済が終わってからだったのだ。
その日は、9月だがまだ残暑が厳しく汗ばむ陽気であった。ホテルで行われたメーカー主催の講演を依頼されていた。壇上での講演中は、スライドの光で席側は良く見えない。後ろの方で大柄な男が座っているのが気になっていた。体の大きい似ている男なんてたくさんいるので、いつもの様に気にしないようにしていた。講演に集中し質疑応答に対応していた。1時間ほどで講演が終わりメーカーの担当さんと次回の打ち合わせをしていた。その時「原田先生、お久しぶりです」と後ろから急に声を掛けられた。振り向くと彼が立っていたのだ。「洋輔さん!」と驚いて絶句し、それ以上声が続かなかった。夢じゃないのかと思ったが、握手をしてきた手は紛れもない彼の大きな温かい手だった。「東京に帰ってきたんだ。これから時間あるかい?」と耳元で言われた。周りにメーカーさんや医師会の役員が居たので、急用と言い夕食の約束を丁重に断った。彼は少し周りから離れて私を待っていてくれた。「急にごめんな。大丈夫かい」「夕食の予定が有ったけどキャンセルした」とすぐに部屋を取ってそのまま二人で移動した。
ドアを閉めるときつく抱きしめてくれた。目の前の洋輔さんは、髪はかなり白くなっていたが変わらず肌がキレイで若々しかった。ソファに並んで座り手を握り合った。「圭太、立派になったな。会いたかった。圭太を探すの大変だったよ」「病院が変わったし、2年前に独立したんだ」「圭太の大学に問い合わせたけど、個人情報は教えてくれなかったんだ。いつも行ってるクリニックの先生が、たまたま圭太と同じ大学出身だったんで聞いてみたんだ。そしたら、個人情報は教えられないけど、講演会の情報なら大丈夫と言ってくれたんだ」「吉田先生だね、1年先輩でサークルでも一緒だったから。でもすごい偶然だね。僕たちまた出会う運命だったのかな」
彼は1人っ子だったので母親の介護のために田舎に帰ったのだ。昨年母親を見送り実家の店や家もすべて処分して東京へ戻ってきて、個人で建築事務所を始めたという。彼は10年以上前に一級建築士に合格し会社でも活躍していた。「先にひとつ聞きたい。いま付き合っている人はいるかい?」「恋人を作ろうなんて考える余裕もなかったし、洋輔さんの事を1日も忘れた事もなかった。会いたくて堪らなかったよ」「俺だって同じだ。圭太を忘れるなんて出来なかった。だから圭太を迎えに来たんだ。待たせてごめんな」私は我慢しきれず、涙が溢れ下を向いて嗚咽した。「ありがとう、嬉しい。でももうあんな辛い思いをするのは嫌なんだ。ずっと一緒にいてくれるの」「あぁ、そうだよずっと一緒だ。俺たちは離れるべきじゃなかった。どれだけ圭太が自分に必要か分かったよ」「別れて初めて気付く事多かったね」二人とも同じ気持ちだったことが分かった。「圭太、相変わらず可愛い。童顔だから変わらないな」といつものように頭をポンポンしてから胸に抱きしめてくれた。「もう45になったよ。もうオジサンだし洋輔さんのタイプじゃ無くなったね」
「若かったから好きになった訳じゃないよ。優しくて素直で一生懸命に生きてる圭太だから好きになったんだ」彼のその言葉が何よりも嬉しかった。「洋輔さんが居なかったら今の自分はないよ。いつも甘えてばかりだった」「圭太に甘えられるの大好きだからな。いくらでも甘えてほしい」しばらく抱きしめられながら夢中でキスをして再会を喜び合った。
二人とも裸になり抱き合うと、あっという間に出会った頃に戻った。彼は剣道をずっと続けているそうで、その体は変わらず美しく夢中で体中にキスをし彼の荒ぶる雄叫びを聞きながら大量の精液を口中で受け止めた。私も体中の匂いを嗅がれてから全身愛撫され何度も意識が飛びそうになる。「相変わらず、感じやすい体だな。野村さんにも抱かれたのか」とまた嫉妬が始まる。「あれから会ってないし、他の誰ともしてないよ。分かってるくせに」「圭太は、好きな相手としかしないだろ」「洋輔さんが最初で最後の男になったよ」「それを聞いて安心した。野村さんに圭太を取られたかもしれないと心配してたんだ」腕枕で抱かれ胸に顔を埋めて甘えていると、彼の体温と匂いで気持ちがとても落ち着いた。一人になってからずっとアクセルを踏みっぱなしで生きてきた。涙が溢れて私の寂しさと孤独が全て洗い流されていくのを感じた。出会った頃の二人に戻れたような気分になり、言葉にならない幸福感でいっぱいになったのだ。「お互いにこれだけ苦しんだんだから、もう前を向いて幸せにならないとな」と言われ「そうだね、もう自分を許してもいい頃だね。これからは、洋輔さんのために生きたい」「俺も圭太のために生きるよ」私はまた泣いてしまった。「圭太の泣き虫も変わらないな」「洋輔さんの前でしか泣かないよ」誰かのために生きるという決意が、これほど心が癒され強くなれるとは思わなかった。
お互いにつらい経験をして、前より絆が強くなり本当の夫婦に成れた様な気がした。もう孤独で泣きながら眠るなんて二度としたくない。彼とこれからの人生を生きていくことになんの迷いも無かった。同じ人にまた恋をすることもあるのだ。会うたびに恋をして好きになれるなんて私は幸せだ。奇跡のような再会に感謝し、そして二度と彼から離れないと心に誓った。