発車
私は酷く後悔していた。
田舎から友人の訃報の知らせが届き、親友であった彼を見送るためにと移動しようとしたのだが、あいにく私は車を運転することができない。しかも、翌日の新幹線まではまだ大分時間があった。困り果てていたところを、知人に「深夜バスというものがある」と教えられたのだった。私はそれに飛び乗るようにし、故郷へと向かうバスに揺られていた。
田舎までは、深夜バスを使っても12時間ほどかかるという。
私は若い頃、その田舎を飛び出して都会へと出てきていた。故郷の、あの逃げ場のない空気がどうにも苦手だった。閉鎖的な場所では何も新しい進展性がなく、「このままこんな田舎で終わってたまるものか!」と、強い反発心と希望を胸に飛び出してきたのだった。そのため、田舎での私の肩身は狭く、同級生に至っては「裏切り者」と陰口を叩き、面と向かって野次られることもあった。古い因習にしがみつき、そこに残っていることが偉いとする風潮が、私には息苦しくて仕方がなかったのだ。だからこそ、私は都会へ移り住んだ。
私の名は「哲(てつ)」という。年齢は、もうすぐ70歳になる。
都会に出てきた私は試行錯誤を重ね、何とか職にありつき、ありがたいことに妻も子供にも恵まれた。波乱はあったものの、それなりの家庭築いてきたつもりだ。ただ、そんな私にも、田舎にはたった一人だけ心を許せる親友がいた。周囲が冷ややかな目を向ける中、その親友だけは私の都会行きを唯一応援してくれたのだ。
最後に私が田舎へ帰ったのは、父親が亡くなった時のことだった。その際も、親戚たちからは「いい加減に戻ってこい」と、命令のような言葉ばかりが浴びせられた。私は心の底から田舎という存在を疎ましく、そして恨んでいた。だが、あの時も親友だけは私の前に立ち、周りから私を庇ってくれた。「もうこっちには戻ってこなくて大丈夫だから」と、静かに微笑んで送り出してくれたのは彼だった。
そんな、私にとって唯一無二の存在であった彼の最後を見送りたい。その一心だけで、私は熟考する間もなく深夜バスへと駆け込んでいた。
平日の深夜バスということもあり、車内は思いのほか空いていた。この日の乗客は、私を含めてたったの3人だけだった。
1人は、おそらく学生なのだろう、若さゆえの無防備さを残した若い男性だった。そしてもう1人は、私よりも少し年上に見える白髪の老人だった。私よりも年上ではあったが、ほぼ同世代と言ってもいい年齢層だ。席が前後近くだったこともあり、消灯前の車内で私たちは小声で世間話を交わしていたのだった。
途中、深夜のサービスエリアでのトイレ休憩があった。車内では、既に深い眠りに落ちていた学生が大いびきをかいていた。私はと言えば、神経が昂っているのか全く眠れず、冷たい夜風の中でトイレを済ませた後に、一本のタバコをくゆらせて一服していたところだった。
そこに、先ほど車内で会話を交わしていた老人が近づいてきた。彼は私と同じようにタバコを手にしており、火を借りるついでにと、再び世間話が始まった。老人はその田舎の近くが出身で、仕事で都会に出てきた帰りだと言った。私は、前述した親友の葬儀のために帰郷するのだと、ぽつりと打ち明けた。
私の左手の薬指には、光を反射する結婚指輪がはめられていた。それを見たからというわけではないだろうが、その後の会話の流れで、私は妻や子供たちのことについても、思いがけず色々と話してしまったと思う。家族円満とは言わずとも、それなりに平穏に暮らしているというような話を、どこか気恥ずかしさを覚えながら口にした気がする。
やがて、休憩時間が終わり、間もなくバスが出発するというアナウンスが流れて、私たちはそれぞれの席へと戻っていった。
車内は、運転席から後ろの客席にかけて光が漏れないように分厚い遮光カーテンがかけられており、前後の座席もまた、プライベートを区切るための同じようなカーテン一枚だけで仕切られているだけだった。閉ざされた空間には、エンジンの低い駆動音と、乗客たちの微かな寝息だけが響いている。
後ろの席に座っていたあの老人も、やはりなかなか眠れないのか、時折ゴソゴソと身じろぎする気配が伝わってきて、低い声で声をかけられたりもした。
それから2時間ほどが経過した頃だろうか。ようやくあの学生の大きな鼾も遠のき、私は気にならないほどの深い眠りに誘われて、まどろみの中へと落ちていった。
夢を見た。
夢の中で私は、若い頃に田舎で密かに好きだった女性のことを思い出していた。なぜ今更そんな昔の記憶が蘇ってきたのか。しかも、それがただの回想ではないと途中で気付いたのは、その女性が目の前に現れ、私と激しく抱き合い、あまつさえ服を脱ぎ捨てて生々しく肌を重ね合わせるような、情動的な夢だったからだ。
夢の中でありながら、肌が触れ合う温度や、息づかいまでがやけに生々しい。
「それにしても、妙にリアルな感触だな……」
そうぼんやりと感じた瞬間、私は現実の意識へと引き戻され、不意に目を覚ましたのだった。
田舎から友人の訃報の知らせが届き、親友であった彼を見送るためにと移動しようとしたのだが、あいにく私は車を運転することができない。しかも、翌日の新幹線まではまだ大分時間があった。困り果てていたところを、知人に「深夜バスというものがある」と教えられたのだった。私はそれに飛び乗るようにし、故郷へと向かうバスに揺られていた。
田舎までは、深夜バスを使っても12時間ほどかかるという。
私は若い頃、その田舎を飛び出して都会へと出てきていた。故郷の、あの逃げ場のない空気がどうにも苦手だった。閉鎖的な場所では何も新しい進展性がなく、「このままこんな田舎で終わってたまるものか!」と、強い反発心と希望を胸に飛び出してきたのだった。そのため、田舎での私の肩身は狭く、同級生に至っては「裏切り者」と陰口を叩き、面と向かって野次られることもあった。古い因習にしがみつき、そこに残っていることが偉いとする風潮が、私には息苦しくて仕方がなかったのだ。だからこそ、私は都会へ移り住んだ。
私の名は「哲(てつ)」という。年齢は、もうすぐ70歳になる。
都会に出てきた私は試行錯誤を重ね、何とか職にありつき、ありがたいことに妻も子供にも恵まれた。波乱はあったものの、それなりの家庭築いてきたつもりだ。ただ、そんな私にも、田舎にはたった一人だけ心を許せる親友がいた。周囲が冷ややかな目を向ける中、その親友だけは私の都会行きを唯一応援してくれたのだ。
最後に私が田舎へ帰ったのは、父親が亡くなった時のことだった。その際も、親戚たちからは「いい加減に戻ってこい」と、命令のような言葉ばかりが浴びせられた。私は心の底から田舎という存在を疎ましく、そして恨んでいた。だが、あの時も親友だけは私の前に立ち、周りから私を庇ってくれた。「もうこっちには戻ってこなくて大丈夫だから」と、静かに微笑んで送り出してくれたのは彼だった。
そんな、私にとって唯一無二の存在であった彼の最後を見送りたい。その一心だけで、私は熟考する間もなく深夜バスへと駆け込んでいた。
平日の深夜バスということもあり、車内は思いのほか空いていた。この日の乗客は、私を含めてたったの3人だけだった。
1人は、おそらく学生なのだろう、若さゆえの無防備さを残した若い男性だった。そしてもう1人は、私よりも少し年上に見える白髪の老人だった。私よりも年上ではあったが、ほぼ同世代と言ってもいい年齢層だ。席が前後近くだったこともあり、消灯前の車内で私たちは小声で世間話を交わしていたのだった。
途中、深夜のサービスエリアでのトイレ休憩があった。車内では、既に深い眠りに落ちていた学生が大いびきをかいていた。私はと言えば、神経が昂っているのか全く眠れず、冷たい夜風の中でトイレを済ませた後に、一本のタバコをくゆらせて一服していたところだった。
そこに、先ほど車内で会話を交わしていた老人が近づいてきた。彼は私と同じようにタバコを手にしており、火を借りるついでにと、再び世間話が始まった。老人はその田舎の近くが出身で、仕事で都会に出てきた帰りだと言った。私は、前述した親友の葬儀のために帰郷するのだと、ぽつりと打ち明けた。
私の左手の薬指には、光を反射する結婚指輪がはめられていた。それを見たからというわけではないだろうが、その後の会話の流れで、私は妻や子供たちのことについても、思いがけず色々と話してしまったと思う。家族円満とは言わずとも、それなりに平穏に暮らしているというような話を、どこか気恥ずかしさを覚えながら口にした気がする。
やがて、休憩時間が終わり、間もなくバスが出発するというアナウンスが流れて、私たちはそれぞれの席へと戻っていった。
車内は、運転席から後ろの客席にかけて光が漏れないように分厚い遮光カーテンがかけられており、前後の座席もまた、プライベートを区切るための同じようなカーテン一枚だけで仕切られているだけだった。閉ざされた空間には、エンジンの低い駆動音と、乗客たちの微かな寝息だけが響いている。
後ろの席に座っていたあの老人も、やはりなかなか眠れないのか、時折ゴソゴソと身じろぎする気配が伝わってきて、低い声で声をかけられたりもした。
それから2時間ほどが経過した頃だろうか。ようやくあの学生の大きな鼾も遠のき、私は気にならないほどの深い眠りに誘われて、まどろみの中へと落ちていった。
夢を見た。
夢の中で私は、若い頃に田舎で密かに好きだった女性のことを思い出していた。なぜ今更そんな昔の記憶が蘇ってきたのか。しかも、それがただの回想ではないと途中で気付いたのは、その女性が目の前に現れ、私と激しく抱き合い、あまつさえ服を脱ぎ捨てて生々しく肌を重ね合わせるような、情動的な夢だったからだ。
夢の中でありながら、肌が触れ合う温度や、息づかいまでがやけに生々しい。
「それにしても、妙にリアルな感触だな……」
そうぼんやりと感じた瞬間、私は現実の意識へと引き戻され、不意に目を覚ましたのだった。
26/09/18 18:39更新 / 調教師の60代
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