遮断された世界
それからというもの、彼との行為は毎日のように行われるようになった。
私が彼を激しく貫く夜もあれば、彼にすべてを委ねて淫らに啼く夜もある。毎日はこれ以上ないほど充実しているように思えた。記憶を失った私にとって、俊と過ごし、夜の営みで互いの肌を貪り合うことこそが、世界のすべてなのだと信じて疑わなかった。
しかし、そんな満ち足りた日々を重ねるうちに、私の心の奥底に、小さな、けれど確かな疑問の染みが広がり始めていた。
私は携帯電話を持たされていない。だが、俊は時折、私の目を盗むようにして誰かと連絡を取り合っている。そしてこの家には、テレビも新聞もない。外の世界の情報は一切遮断されており、「今日は外でこんなことがあったみたいだよ」という、俊の口から語られる言葉だけが、私の世界の境界線だった。
(本当に……彼と私は、記憶を失う前も夫婦だったのだろうか?)
一度芽生えた猜疑心は、止めどなく膨らんでいく。部屋には彼との思い出の品とされるものがいくつか飾られていたが、それらもすべて「これはあの時のものだよ」と俊から一方的に聞かされた物ばかりだ。
何より不自然なのは、この家には「写真」というものが一枚も存在しないことだった。本当に長年連れ添った夫婦であるならば、微笑み合う二人の姿が、せめて数枚はあってもいいはずではないか。
意を決してその疑問をぶつけてみたが、俊は「ごめんね、写真はないんだよね」と寂しげに微笑むだけで、すぐに話をはぐらかされてしまった。
私は彼との思い出だけでなく、他に友人はいなかったのか、家族はいないのかと、必死に記憶の霧を晴らそうとした。しかし、何かを思い出そうとする度に割れるような頭痛が襲い、結局はまたベッドに寝込んでしまう日々が続いた。
ある日の午後、私はいつもの頭痛でベッドに横たわっていた。俊は私が深く眠っていると思い込んでいるようだった。
その時、外から俊と、隣人らしき誰かが低く喋り込んでいる話し声が聞こえてきた。私は静かに身を起こし、足音を忍ばせて窓辺に立ち、二人の会話を盗み聞きしようと耳を澄ませた。
「……一人で、大変だねぇ」
相手のその言葉に、俊の声が応じる。
「いえ……本当に、目が離せないんですよ。いつも追っていないと」
何のことかは分からなかった。だが、その低く冷徹な響きを帯びた俊の言葉は、棘のように私の胸に突き刺さり、次第に私の精神を蝕んでいった。
また別の日のこと。俊が「少し遠出をしてくる」と言って家を空けた。
これはチャンスかもしれない。私は何か自分の身元や過去の手がかりになる情報がないか、恐怖と戦いながら家の中をくまなく捜索し始めた。そして、俊のクローゼットの奥深くから、古びた新聞の切り抜きを見つけた。
そこに印刷されていた顔写真を見て、息が止まった。
私だ。間違いなく、私に酷く似た人物の姿がそこにあった。そしてその上には、悍ましい文字が躍っていた。
『行方不明』――。
内容に目を走らせると、私は数年前から突如として行方不明になっており、警察に捜索願いが出されている、という趣旨のものだった。
「え……? なんで……?」
目の前が暗転するような衝撃と共に、背筋に冷たい氷を押し当てられたような恐怖が込み上げた。
私を司と呼び、愛しい夫だと名乗り、毎日身体を重ねてくるあの男は、一体誰なんだ?
(『目が離せない』『いつも追っている』……あれは、介護の話なんかじゃない。私を『監視』しているという意味だったのか!?)
そもそも、本当に私たちが夫婦であるならば、近所の人間が俊に対して「一人で大変だね」などという言葉を使うはずがない。俊は最初から、天涯孤独の身としてここで暮らしていたのだ。
夕方になり、俊が帰宅した。彼は何事もなかったかのように、いつもの穏やかな笑顔で、私の世話を献身的に焼いてくれる。
けれど、その甲斐甲斐しい介護のすべてが、私をこの家に縛り付け、安心させて飼い殺しにするための狂気に見えて仕方がなかった。あの情事で感じていた甘やかな愛。それすらも、私の自由を奪い、従順にさせるための「調教」の手段だったのではないか。
私は俊が恐ろしくてたまらなくなり、本能的に彼から距離を置くような行動を取り始めた。
以前であれば、私がリビングで寛ごうが、家の中を歩き回ろうが、俊が執拗に後をつけてくることはなかった。しかし、私が彼を避けるような素振りを見せてからは、状況が一変した。
私がひと部屋移動するたびに、俊が足音もなく、ぴったりと後ろからついて回るようになったのだ。
振り向くと、そこには感情の読めない瞳で私をじっと見つめる俊が立っている。
もしかすると、私が「夫婦ではないという真実」に気づいたことを察したのだろうか。私を捉える彼の監視の目は、逃げ場を無くすほどに、より一層厳しく、冷酷なものへと変わっていっていた。
私が彼を激しく貫く夜もあれば、彼にすべてを委ねて淫らに啼く夜もある。毎日はこれ以上ないほど充実しているように思えた。記憶を失った私にとって、俊と過ごし、夜の営みで互いの肌を貪り合うことこそが、世界のすべてなのだと信じて疑わなかった。
しかし、そんな満ち足りた日々を重ねるうちに、私の心の奥底に、小さな、けれど確かな疑問の染みが広がり始めていた。
私は携帯電話を持たされていない。だが、俊は時折、私の目を盗むようにして誰かと連絡を取り合っている。そしてこの家には、テレビも新聞もない。外の世界の情報は一切遮断されており、「今日は外でこんなことがあったみたいだよ」という、俊の口から語られる言葉だけが、私の世界の境界線だった。
(本当に……彼と私は、記憶を失う前も夫婦だったのだろうか?)
一度芽生えた猜疑心は、止めどなく膨らんでいく。部屋には彼との思い出の品とされるものがいくつか飾られていたが、それらもすべて「これはあの時のものだよ」と俊から一方的に聞かされた物ばかりだ。
何より不自然なのは、この家には「写真」というものが一枚も存在しないことだった。本当に長年連れ添った夫婦であるならば、微笑み合う二人の姿が、せめて数枚はあってもいいはずではないか。
意を決してその疑問をぶつけてみたが、俊は「ごめんね、写真はないんだよね」と寂しげに微笑むだけで、すぐに話をはぐらかされてしまった。
私は彼との思い出だけでなく、他に友人はいなかったのか、家族はいないのかと、必死に記憶の霧を晴らそうとした。しかし、何かを思い出そうとする度に割れるような頭痛が襲い、結局はまたベッドに寝込んでしまう日々が続いた。
ある日の午後、私はいつもの頭痛でベッドに横たわっていた。俊は私が深く眠っていると思い込んでいるようだった。
その時、外から俊と、隣人らしき誰かが低く喋り込んでいる話し声が聞こえてきた。私は静かに身を起こし、足音を忍ばせて窓辺に立ち、二人の会話を盗み聞きしようと耳を澄ませた。
「……一人で、大変だねぇ」
相手のその言葉に、俊の声が応じる。
「いえ……本当に、目が離せないんですよ。いつも追っていないと」
何のことかは分からなかった。だが、その低く冷徹な響きを帯びた俊の言葉は、棘のように私の胸に突き刺さり、次第に私の精神を蝕んでいった。
また別の日のこと。俊が「少し遠出をしてくる」と言って家を空けた。
これはチャンスかもしれない。私は何か自分の身元や過去の手がかりになる情報がないか、恐怖と戦いながら家の中をくまなく捜索し始めた。そして、俊のクローゼットの奥深くから、古びた新聞の切り抜きを見つけた。
そこに印刷されていた顔写真を見て、息が止まった。
私だ。間違いなく、私に酷く似た人物の姿がそこにあった。そしてその上には、悍ましい文字が躍っていた。
『行方不明』――。
内容に目を走らせると、私は数年前から突如として行方不明になっており、警察に捜索願いが出されている、という趣旨のものだった。
「え……? なんで……?」
目の前が暗転するような衝撃と共に、背筋に冷たい氷を押し当てられたような恐怖が込み上げた。
私を司と呼び、愛しい夫だと名乗り、毎日身体を重ねてくるあの男は、一体誰なんだ?
(『目が離せない』『いつも追っている』……あれは、介護の話なんかじゃない。私を『監視』しているという意味だったのか!?)
そもそも、本当に私たちが夫婦であるならば、近所の人間が俊に対して「一人で大変だね」などという言葉を使うはずがない。俊は最初から、天涯孤独の身としてここで暮らしていたのだ。
夕方になり、俊が帰宅した。彼は何事もなかったかのように、いつもの穏やかな笑顔で、私の世話を献身的に焼いてくれる。
けれど、その甲斐甲斐しい介護のすべてが、私をこの家に縛り付け、安心させて飼い殺しにするための狂気に見えて仕方がなかった。あの情事で感じていた甘やかな愛。それすらも、私の自由を奪い、従順にさせるための「調教」の手段だったのではないか。
私は俊が恐ろしくてたまらなくなり、本能的に彼から距離を置くような行動を取り始めた。
以前であれば、私がリビングで寛ごうが、家の中を歩き回ろうが、俊が執拗に後をつけてくることはなかった。しかし、私が彼を避けるような素振りを見せてからは、状況が一変した。
私がひと部屋移動するたびに、俊が足音もなく、ぴったりと後ろからついて回るようになったのだ。
振り向くと、そこには感情の読めない瞳で私をじっと見つめる俊が立っている。
もしかすると、私が「夫婦ではないという真実」に気づいたことを察したのだろうか。私を捉える彼の監視の目は、逃げ場を無くすほどに、より一層厳しく、冷酷なものへと変わっていっていた。
26/06/04 17:34更新 / 調教師の60代
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