連載小説
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言葉の秘密
「中山じゃなくて、君の本当の名前は何だい?」
岩井さんは、私の拙い嘘をすべて見透かしたような目で、優しく問いかけてきた。私はついに観念し、小さな声で本当の名前を告げた。
「……山口、です」
(ああ、これで彼との関係も本当におしまいなんだ……)
絶望が胸を締め付け、私の視界はみるみる涙で滲んでいった。
すると岩井さんは、慌てたように私の顔を覗き込んできた。
「おや、どうしてそんな悲しそうな顔をするんだい?」
私は胸の奥に溜まった恐れを、堰を切ったように打ち明けた。岩井さんとこれからも関係を続けていきたいこと、だけど私が「中山」ではないから、嘘つきだと呆れられて離れていってしまうのではないかと怖かったこと。

私の言葉を聞いた岩井さんは、一転して神妙な面持ちになり、驚いたように目を見開いた。
「……山口さん、もしかして君、『中山さん』という言葉の意味を知らないのかい?」
「え……?」
呆然とする私に、岩井さんはあの公園に隠された、驚くべき真実を教えてくれた。

あの公園は、男性が好きな男性が集まる場所、いわゆる「ハッテン場」と呼ばれる空間なのだという。そして、私がいつも所在なく座っていたあのベンチこそが、男たちが互いを見定める待ち合わせ場所のようになっていたのだ。そこで相手が同類かどうかを確かめるために、合言葉のように「中山さんですか?」と声をかけるのだそうだ。
中山さん――それは、この世界の住人たちの間で「あなたはゲイですか?」を意味する、大人の隠語だったのだ。
そして、さきほどまで私たちが激しく舐め合ったあの公衆トイレは、互いの合意が取れた者が行為に及ぶための、暗黙の舞台になっているのだという。

すべての謎が解けた。あの田口という男は、ベンチに座っていた私を見てタイプだと感じ、隠語である「中山」を使って声をかけてきたのだ。
だが、当時の私は何も知らぬノンケだった。だから断って、逃げるように場所を移動した。しかし、最悪なことに、私は行為の場所である「トイレ」へと先回りして駆け込んでしまった。田口の目には、私のその行動が「本当はゲイのくせに、白々しく焦らして誘っている」と映り、あのような強行に及んだのだろう。

「まさか、そんな意味があったなんて……」
驚愕する私に、岩井さんは「隠語の意味も知らなかった君が、どうしてあの場所にいたんだい?」と優しく尋ねてきた。私は隠すことなく、あの日、田口に無理矢理個室に連れ込まれて犯された恐怖の経験を、正直にすべて打ち明けた。
私の話を聞くうちに、岩井さんの穏やかな顔が、激しい怒りに震え始めた。
「許せないな……。ノンケの君にそんな無理矢理な真似をするなんて。そいつの特徴には見覚えがある。今度見つけたら、僕がたっぷり懲らしめてやるよ」
岩井さんは我がことのように憤慨してくれた。私は続けて、その最悪な出来事がきっかけで、自分の中に眠っていたゲイという本性が爆発するように目覚めてしまったこと、そして今は、男の体臭や雄の匂いにどうしようもなく反応してしまう身体になってしまったことも、恥じらいながら伝えた。

岩井さんはじっと私を見つめ、「もしかして、男のペニスを舐めたのも、今日が初めてだったのかい?」と聞いてきた。私は小さく頷き、誰かとのキスも、フェラチオも、精液を飲み干したことも、すべてが岩井さんが初めての相手なのだと告げた。

その瞬間、岩井さんは顔を輝かせ、まるで子供のように無邪気で嬉しい声を上げた。
「僕が君の初めてなんだね! やったぁ!」
彼は本当に嬉しそうに何度も笑ったあと、真っ直ぐに私の目を見て、温かい言葉を投げかけてくれた。
「山口さん、僕は君のような人が大好きなんだ。良かったら、僕と付き合ってくれないかい?」
付き合う。男性同士が恋人になるという概念が、それまでの私の人生にはなく、すぐにはピンとこなかった。私は正直にその戸惑いを伝えた。ただ、岩井さんとはこれからも、もっともっとたくさんエッチをしてみたいという素直な欲望も、一緒に伝えた。
岩井さんは包み込むように微笑んだ。
「それなら、付き合うとか難しいことは置いておこう。僕とエッチをする関係を続けようじゃないか」
その提案は、私にとってこれ以上ないほど嬉しいものだった。私は喜んで、その甘い条件を受け入れることにした。

湯上がりの涼み場で話を続けるうちに、岩井さんは私の家から徒歩十分ほどの目と鼻の先に住んでいること、数年前に奥さんを亡くされてからはずっと独り身であることを教えてくれた。私もまた、高校生の頃のトラウマのせいで、この年齢になるまで誰とも肌を合わせたことがなかった孤独な半生を打ち明けた。
「今夜、僕の家へおいでよ」
岩井さんは優しく私を招待してくれた。一緒に美味しいご飯を食べよう、と。
定年を迎え、孤独に死んでいくだけだと思っていた私の人生に、数十年ぶりに「誰かのぬくもり」が灯っていく。彼の家の食卓で交わす会話は、それだけで私の凍えた心をじんわりと溶かしてくれた。

夜が静かに更けていき、寝室のベッドに二人で横たわったときだった。
岩井さんは私の身体を愛おしそうに抱き寄せると、少し躊躇いがちな、しかし強い意志の籠った声で囁いた。
「……山口さん、嫌かもしれないけれど、良かったら君のお尻に、僕のペニスを入れてみたいんだ。あの田口に乱暴に汚されてしまった君のお尻を、僕の愛で上書きして、僕だけのものにしたい」

その言葉は、私の胸の奥に深く突き刺さった。恐怖などなかった。私はすでに、この優しくて雄々しい岩井さんという男の虜になっていた。
「……はい。岩井さんなら、いいです」
私は彼を受け入れる覚悟を決め、静かに瞳を閉じるのだった。
26/06/02 11:18更新 / 調教師の60代
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