連載小説
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残照の池
定年退職を迎えてからというもの、私の一日は、ただ過ぎ去るのを待つだけの空白に変わってしまった。
その日も私は、公園のベンチに腰掛け、所在なく池の水面を眺めていた。水面は陽光を浴びて鈍く光り、時折風に揺れるだけで、何が起こるわけでもない。今年で七十歳を迎える。山口という私の名を呼ぶ者は、もうどこにもいなかった。
妻もいなければ、子供もいない。振り返れば、かつての職場でも私は常に浮いた存在だった。自ら壁を作り、他人を遠ざけて生きてきたからだ。

世間は私を「男色に興味のない、風変わりな独身男」と見ていたかもしれない。だが本当の理由は違った。私の中には、ある出来事をきっかけに、根深い「女性への恐怖心」が植え付けられていたのだ。

時計の針を、私が高校生だった頃まで巻き戻さねばならない。

思春期を迎えた当時の私は、ごく一般的な少年と同じように、女性に対する淡い恋心を抱いていた。同級生の女子に、胸の奥で密かな憧れを募らせることもあった。
私が育ったのは、俗に言う下町だった。住民同士の距離がやたらと近く、お節介と言えるほどの近所付き合いが日常茶飯事の、良くも悪くも境界線の曖昧な街。
そして、高校から我が家へと続く通学路には、「花街」と呼ばれる一画が存在していた。

夕闇が迫ると、その街には色めいた灯りがともる。そこは女性たちが男たちに媚びを売り、夜の営みを交わす場所だった。子供ながらに、私はその街の仕組みを理解していた。
だが、華やかな光が強ければ強いほど、そこに生じる闇もまた深くなる。

花街の片隅には、年齢や容姿の衰えから店で売れなくなった女性たちが、道端に佇む場所があった。店で売られる値段とは雲泥の差があるような、はした金で身を切り売りする。彼女たちの多くは、物心ついた頃からその街で身体を差し出し、運のいい一握りは年配の男の「妾」として引き取られていった。しかし、そんなシンデレラストーリーは奇跡に近い。残された大半の人間は、やがて店の小間使いのように扱われるのが落ちだった。

昨日までは「商品」として大事に扱われていた女性が、ある日突然、引退を告げられる。翌日には周囲の態度が手のひらを返したように冷たくなり、化粧をすることさえ許されなくなる。そんな地獄のような落差の中でも、彼女たちは生きるために必死で小間使いの立場を受け入れるのだ。

しかし、かつて売れっ子だったプライドが、その地味な現実を許さない者もいる。
彼女たちは華やかな過去を捨てきれず、プライドを抱えたまま夜の道路に立ち、自らを安売りするループに陥っていく。本来の価値よりも遥かに安い金を受け取り、その日暮らしを続けるうちに、プライドはおろか、人間としての尊厳すらも考えられない場所まで落ちていくのだ。

私の通学路は、否応なしに彼女たちの「テリトリー」を通るルートになっていた。
私の実家は近隣でも比較的裕福な方だったため、幼い頃から私を知る彼女たちは、親しみを込めて、あるいはどこか皮肉を込めて、私のことを「坊」と呼んだ。

その日も私は、居心地の悪さから逃れるように家路を急いでいた。
「坊!良かったら、私の身体はどう?」
声をかけてきたのは、明美さんという四十代後半の女性だった。毎日のように繰り返されるそのセリフを、私はいつもの質の悪い冗談だと受け止めていた。
「誰が年取ったババアの相手なんかするかよ」
私は引きつった笑いを浮かべながら、彼女を嘲笑うようにそう言い放ち、通り過ぎた。

その夜、私は当時唯一の趣味であった天体観測に出かけた。星々が輝く静寂の世界だけが、あの生々しい街の気配を忘れさせてくれた。
夜も更け、観測を終えていつもの道を帰宅しているときだった。足元のおぼつかない明美さんが、泥酔した状態で私に絡んできた。
彼女はぶつぶつと、独り言のように怨嗟の言葉を吐き散らしていた。

聞き耳を立てるまでもなく、彼女の境遇が伝わってきた。
どうやら男に買われ、行為を終えた直後、隙を突かれて有り金をすべて持ち逃げされたらしい。
その男は、去り際にこう言い捨てたという。
『お金でも貰わなきゃ、お前みたいなババア、誰が相手にするかよ!』

その言葉は、明美さんの残されたプライドを粉々に砕いたのだろう。彼女は激しく落ち込み、手元に残った僅かな金で、浴びるように酒を煽っていたのだ。

地べたに座り込む彼女を前にして、私は通り過ぎるべきか迷った。しかし、夜の冷気の中で泣き濡れる姿に、どうしても足が止まってしまった。
私は懐から水を取り出して差し出し、彼女を慰めるような言葉をかけてしまった。

――それが、私の人生を決定的に狂わせる、取り返しのつかない過ちの始まりだった。
26/06/01 18:58更新 / 調教師の60代
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