退屈な日常の隙間
六十五歳で会社を定年退職した時、私はそれなりの「悠々自適な生活」というものを思い描いていた。しかし、待っていたのは酷く退屈で、所在のない日常だった。私にとって仕事はただの義務ではなく、日々の生きがいそのものだったのだろう。趣味と呼べるものは何一つなく、ただ一日を潰すように、残された人生という砂時計の砂が落ちるのを眺めるだけの日々。何事もなく、ただ消化されていく時間。
私には家族がいない。これまでの人生を、ほぼ一人きりで過ごしてきたと言っても過言ではなかった。
その理由は、私の性的趣向にあった。私は男性にしか惹かれず、その欲求も男性でしか埋めることができない。俗に言う「ゲイ」という存在だからだ。
私がその世界に足を踏み入れたのは、三十代という、いわゆる男盛りの頃だった。
きっかけは、当時よく面倒を見てくれていた職場の上司に連れられて行った、一軒の店だった。接待を終えた後、「安くて面白い場所がある」と案内されたその店こそが、男性を好きな男性が集まり、酒を酌み交わし、仲間や相手を見つける「ゲイバー」だったのだ。
上司はいわゆるノンケだったが、当時流行りだったクラブやキャバクラよりも安上がりで、男同士なら気兼ねがないという理由でその店を利用していた。私自身、最初はそこがどういう場所なのか全く気づいておらず、「やけに男性客ばかりの店だな」と妙な解釈をしていたのを覚えている。
元々お酒が好きだったこともあり、私はその店を気に入った。普段の仕事では決して関われないような、他社で年上の重役たちが、若造の私に気さくに声をかけてくれた。当時の私は世間知らずで、「ここはなんて面倒見の良い人たちが集まる場所なんだろう」と勘違いしていたのだ。今思えば、重役たちは私のようなタイプが好みで、下心を持って近づいてきていたに違いないのだが。
居心地の良さと安さに惹かれ、私は週に二回ほどその店に通うようになった。
そんなある日、お店のスタッフから、ここが「男性を好きな男性が集まる場所」であることを優しく教えられた。当時はまだ「ゲイ」という言葉すら一般的ではない時代だった。しかし私の中に偏見は全くなかった。せっかくできた数少ない友人たちを、そんな偏見で失いたくないという気持ちの方が強かったのだ。
実はその頃、私には悩みがあった。女性との交際経験もあったのだが、いつからか化粧の匂いがどうしても受け入れられなくなり、いざ行為に及ぼうとしても、中折れしてしまうようになっていたのだ。自分では女性が好きだと思い込もうとしていたが、身体は正直だった。「自分は男として、三十代で終わってしまったのだろうか」と、密かに自信を失っていた。
気づけば私はその店のすっかり常連になり、いつものように仕事終わりにカウンターでグラスを傾けていた。そこへ、隣の席に一人の男性が腰掛けた。白髪の混じる、おそらく六十代後半から七十代と思われる初老の男性だった。
彼と交わした他愛のない会話は、驚くほど面白く、私の心を弾ませた。彼もまた常連だったが、通う曜日が違ったため、それまで すれ違っていたらしい。いつもなら決まった量で切り上げるはずの酒が、その夜は会話の弾みとともに進み、私はいつの間にか深い泥酔の中に沈んでいった。
彼に肩を支えられ、タクシーに乗せられたところまでは、かすかに覚えている。
しかし、次に目を覚ました時、私は見知らぬ部屋のベッドの上で、一物も纏わぬ裸の状態で横たわっていた。
「はっ」として身を起こす。激しい二日酔いで頭が割れるように痛む中、部屋のドアが開き、昨夜の彼が現れた。
「大丈夫かね?」
心配そうに覗き込む彼に、私は「久々にここまで飲んでしまいました」と苦笑いしながら答えた。ベッドの縁に腰掛けた彼は、上質なガウンを羽織っており、どことなく紳士的な佇まいを崩さなかった。
彼から手渡されたグラスの水を、渇いた喉に一気に流し込む。ぷは、と息を吐き、グラスを置いた、まさにその瞬間だった。
視界が不意に遮られ、私の唇は、彼の唇によって塞がれていた。
「……っ!」
咄嗟の出来事に、私は身体を強張らせ、彼を強く跳ね除けてしまった。
「私はノンケです。男性と、その……そういう経験はありません」
困惑しながら拒絶の意思を伝える私に、彼は静かに、しかし情熱を秘めた目で言った。
「前々から、君のことが気になっていたんだ」
私は、自分が男性として機能しなくなっていること、期待されてもきっと満足させられないという諦めを正直に打ち明けた。彼は一瞬、ひどく悲しそうな顔をしたが、やがて消え入るような声で「せめて、キスだけでもさせてくれないか」と乞うてきた。
昨夜、泥酔した自分をここまで送り届け、介歩してくれた彼への、せめてものお礼のつもりだった。「キスだけなら……」と、私は目を閉じてそれを受け入れることにした。
だが、彼のキスは、私の想像していたものとは全く違っていた。
ただ唇を重ねるだけの優しい挨拶のようなものを予想していた私に反し、触れ合った刹那、彼の熱い舌が私の口内へと滑り込んできたのだ。
本来なら、ノンケの男にとって男の舌を受け入れるなど、拒絶反応しか起きないはずだ。しかも相手は、自分の倍以上も歳の離れた老人である。
それなのに。
頭の片隅で「嫌だ」と理性が呟く一方で、私の身体は、全く違う反応を示していた。
身体の奥底、下腹部のあたりから、これまで感じたことのない熱い何かが、激しく込み上げてくるのを確かに感じていた。長い間眠っていたはずの私の「男」が、彼の舌の熱によって、静かに、しかし確実に目を覚まそうとしていた。
私には家族がいない。これまでの人生を、ほぼ一人きりで過ごしてきたと言っても過言ではなかった。
その理由は、私の性的趣向にあった。私は男性にしか惹かれず、その欲求も男性でしか埋めることができない。俗に言う「ゲイ」という存在だからだ。
私がその世界に足を踏み入れたのは、三十代という、いわゆる男盛りの頃だった。
きっかけは、当時よく面倒を見てくれていた職場の上司に連れられて行った、一軒の店だった。接待を終えた後、「安くて面白い場所がある」と案内されたその店こそが、男性を好きな男性が集まり、酒を酌み交わし、仲間や相手を見つける「ゲイバー」だったのだ。
上司はいわゆるノンケだったが、当時流行りだったクラブやキャバクラよりも安上がりで、男同士なら気兼ねがないという理由でその店を利用していた。私自身、最初はそこがどういう場所なのか全く気づいておらず、「やけに男性客ばかりの店だな」と妙な解釈をしていたのを覚えている。
元々お酒が好きだったこともあり、私はその店を気に入った。普段の仕事では決して関われないような、他社で年上の重役たちが、若造の私に気さくに声をかけてくれた。当時の私は世間知らずで、「ここはなんて面倒見の良い人たちが集まる場所なんだろう」と勘違いしていたのだ。今思えば、重役たちは私のようなタイプが好みで、下心を持って近づいてきていたに違いないのだが。
居心地の良さと安さに惹かれ、私は週に二回ほどその店に通うようになった。
そんなある日、お店のスタッフから、ここが「男性を好きな男性が集まる場所」であることを優しく教えられた。当時はまだ「ゲイ」という言葉すら一般的ではない時代だった。しかし私の中に偏見は全くなかった。せっかくできた数少ない友人たちを、そんな偏見で失いたくないという気持ちの方が強かったのだ。
実はその頃、私には悩みがあった。女性との交際経験もあったのだが、いつからか化粧の匂いがどうしても受け入れられなくなり、いざ行為に及ぼうとしても、中折れしてしまうようになっていたのだ。自分では女性が好きだと思い込もうとしていたが、身体は正直だった。「自分は男として、三十代で終わってしまったのだろうか」と、密かに自信を失っていた。
気づけば私はその店のすっかり常連になり、いつものように仕事終わりにカウンターでグラスを傾けていた。そこへ、隣の席に一人の男性が腰掛けた。白髪の混じる、おそらく六十代後半から七十代と思われる初老の男性だった。
彼と交わした他愛のない会話は、驚くほど面白く、私の心を弾ませた。彼もまた常連だったが、通う曜日が違ったため、それまで すれ違っていたらしい。いつもなら決まった量で切り上げるはずの酒が、その夜は会話の弾みとともに進み、私はいつの間にか深い泥酔の中に沈んでいった。
彼に肩を支えられ、タクシーに乗せられたところまでは、かすかに覚えている。
しかし、次に目を覚ました時、私は見知らぬ部屋のベッドの上で、一物も纏わぬ裸の状態で横たわっていた。
「はっ」として身を起こす。激しい二日酔いで頭が割れるように痛む中、部屋のドアが開き、昨夜の彼が現れた。
「大丈夫かね?」
心配そうに覗き込む彼に、私は「久々にここまで飲んでしまいました」と苦笑いしながら答えた。ベッドの縁に腰掛けた彼は、上質なガウンを羽織っており、どことなく紳士的な佇まいを崩さなかった。
彼から手渡されたグラスの水を、渇いた喉に一気に流し込む。ぷは、と息を吐き、グラスを置いた、まさにその瞬間だった。
視界が不意に遮られ、私の唇は、彼の唇によって塞がれていた。
「……っ!」
咄嗟の出来事に、私は身体を強張らせ、彼を強く跳ね除けてしまった。
「私はノンケです。男性と、その……そういう経験はありません」
困惑しながら拒絶の意思を伝える私に、彼は静かに、しかし情熱を秘めた目で言った。
「前々から、君のことが気になっていたんだ」
私は、自分が男性として機能しなくなっていること、期待されてもきっと満足させられないという諦めを正直に打ち明けた。彼は一瞬、ひどく悲しそうな顔をしたが、やがて消え入るような声で「せめて、キスだけでもさせてくれないか」と乞うてきた。
昨夜、泥酔した自分をここまで送り届け、介歩してくれた彼への、せめてものお礼のつもりだった。「キスだけなら……」と、私は目を閉じてそれを受け入れることにした。
だが、彼のキスは、私の想像していたものとは全く違っていた。
ただ唇を重ねるだけの優しい挨拶のようなものを予想していた私に反し、触れ合った刹那、彼の熱い舌が私の口内へと滑り込んできたのだ。
本来なら、ノンケの男にとって男の舌を受け入れるなど、拒絶反応しか起きないはずだ。しかも相手は、自分の倍以上も歳の離れた老人である。
それなのに。
頭の片隅で「嫌だ」と理性が呟く一方で、私の身体は、全く違う反応を示していた。
身体の奥底、下腹部のあたりから、これまで感じたことのない熱い何かが、激しく込み上げてくるのを確かに感じていた。長い間眠っていたはずの私の「男」が、彼の舌の熱によって、静かに、しかし確実に目を覚まそうとしていた。
26/05/29 14:08更新 / 調教師の60代
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